笛吹きたち 第2号
石原利矩
はじめに
「笛吹きたち」第二号が出来上がりました。始めは年二回位出せればと思っておりましたが、第一号の出来ばえが、あまりにもすばらしく、又その並々ならぬ、制作のご苦労を考えると、年一回で十分ではないかと言うことになりました。それにつけても、原稿を集めるのが大変でした。お弟子さんは先生に似ると、よく言われますが、いくら私がつつしみ深く又思慮深いと言っても(エッ皆さんそうおっしゃいます)原稿を出す事まで、つつしみ深くなくても良いんじゃないかと思います。もっと他に、まねしてもらい事が一ぱい有ると思うんですが・・・。
さて、今回は各自の筆跡で、原紙に書いてもらいましたが、それなりに味わいが有るものですね。「悪筆は頭の良い証拠」と、何十年来、自分に言い聞かせて来たので、自分で書く事は、さして苦になりません。さて、我々の行事も、色々な事をする様になりました。
去年の夏の合宿、新年会の麻雀大会、そしてこの「笛吹きたち」の発行 今年の六月には発表会、その内座禅会を、夏には又合宿と幹事の人がたくらんでおりますから、皆様ふるって御参加下さい。何故そんな事をするかと言えば、「フルート以前に音楽有り、音楽以前に人間有り」と言う事なのです。この「笛吹きたち」の発刊も結局はそんな処に理由があるのです。それにつけても、今回の制作編集にあたられました、亀井君、成瀬君、田中洋子さん、松沢さん、大変御苦労様でした。又来春には第三号を出したいと思いますので、皆様、その時になってあわてない様、今から想を練っておいて下さい。
最近考えているバカげたこと 喜多村立彦
相変らずモーツァルト病にとりつかれていて、レコード買うのも彼のものばかり。どっかのオケでモーツァルトをやるとなると、無理して切符買ったり、団員に頼みこんで裏口から入れてもらったり。
でも、彼のフルートコンチェルトってやたらとむずかしいんですね。D-durなんて、最初のDのトリルからしてもたついて、さればとてG-durは低音でソーレーレレッレとやるとこ、全然様にならないし、C-durのハープとのコンチェルト、これ、最初ハ長調のドーソミドミソと分散和音、なんのことあるまいと吹いてみて、その音程のひどいこと、しばし唖然とし、やっぱり美しいものには、やたら近付かないで遠くから眺めていたほうがいいんだなと勝手な理屈をつけて、もっぱら聴くの専門、聴くほうなら、勝手気儘、やっぱりベームはいいとか、カラヤンは味気ないとか、ベルリンよりウィーンがいいとか、好きなこと言いたい放題いって、よく聴くと、ランパル先生も案外音程悪いとこあったりして、安心したり、喜んだりで、こんなこと音楽の本質と全然関係ないのに、名人のアラ捜しして悦にいってるなんて、まったく偏執的なもんで。だからフルートうまくなんないんだなあ。
話に聞くと、モーツァルトはフルートが嫌いだったらしく「こんな音色が貧しく、音程の悪い楽器のために曲を書くのは苦痛です。」なんて言っていたそうだ。彼の時代のフルート確かにひどかったらしく。だから、ぼくがひどい音で吹いても、地下のモーツアルト「ああ、なつかしや、これこそオレの時代の音だ。」なんて喜んでんじゃないかなあ。
でも彼の作品、たしかにフルートよりも、クラリネットなんかに向いていると思う。(横笛吹きとして、口惜しいけど)あの五重奏曲も、コンチェルトも、ほんとにいい曲で、これぞモーツァルトの真髄。またクラリネットの兄貴分のバセットホルンなんぞも実にいい音。「十三管楽器」や「レクイエム」聴いてみたら、わかるでしょう。フルートのヒステリックな悲鳴と違って、精神安定剤的な音がするから。
ぼくも、あんな楽器やってたら、もうちょっと人格円満な落ち着いた性格になってたんじゃないかなあなんて考えたりして。
だいたいこの文だってひどい有様の文体で、前号に書いたエセ文学的な、気障な文章とは、大違い。別に野坂昭如の読みすぎというわけでもないんだけど、最初は、もっと格調高い文章書きたかったんだけど、まったく読みづらくて、ここまで我慢して読んだ人、ごくろうさまでした。
雑感 芳野治樹
皆さんの中で、人前でフルートを吹くというと、すぐにあがって困ってしまう、という人はいませんか。僕は、小心のせいかすぐにあがってしまうので、どうもまいってしまいます。僕のフルートを誰かが聞いていようものなら、例え一人であっても、かたくなってしまいます。まあそばにいても気にならないのは家のネコくらいのものでしょうか。これをすれば絶対あがらないというおまじないのようなものがあったらなぁ、と時々つくづく思うことがあります。
でも、いつか「カザルスの対話」という本を読んでいたら、カザルスがものすごいあがり家だということが書いてありました。ある時カザルスは、自分のリサイタルに行く途中、暗譜したはずのこれからやろうという曲の始めが、緊張のためにどうしても思い出せず、イライラしたことがあったそうです。またある時には、やはり、リサイタルのはじめに、あまりかたくなってしまったため、第一音を発するやいなや、弓が、聴衆の最前列のところまで飛んでいってしまったということもあったそうです。
そう言えば、先日、NHKでやっている、森正さんのフルート教室を見ていたら、森さんがこの年になっても、これから指揮台に立つという開演前は、あがってしまって、ひざが、ガクガクふるえてしまう、というようなことをおっしゃっていました。僕はそれまで森正さんという人は、にくらしい程落ち着いた人だ、などと思っていたのでその言葉はとても意外で、いろいろ考えさせられました。
勿論、僕は別に、自分でリサイタルを開くのでも、指揮をするわけでもないのですが、そう頭では考えても、やはりあがってしまいます。しかし、カザルスや、森さんの例をみると、あがるということが、それ程悪いこととばかりは言えない気もしてきます。そればかりか、あがるということと、音楽に対するまじめな気持ちとは切り離せない関係にあるのではないかとさえ思えてきます。
そんなわけで、僕は最近、ひらき直ってしまって、あがってもいいのだ、と自分に言い聞かせるようになってきました。結局大切なことは、あがろうがどうしようが、とにかく自分のありったけの心をこめて、フルートを吹くということではないかと思っています。
定期演奏会 曽我真輸紀
一月十四日は、千葉大学の定期演奏会でした。私は、チャイコフスキーの四番でセカンドフルートを吹くことになっていました。
演奏会の服装がコンサート・マネージャーから発表された時に、ホルンの先輩が、「曽我さんは、ねっ、ダーク・スーツに棒ネクタイの格好で出るんだろう、ねっ。」なんて言うのです。最初は、えっ、と思ったのですよ。なぜって、自分は管楽器だから、他の男の人と服装をそろえるのかなって。前から管は、女の子でもスラックスをはくことになっているのかなって、一瞬。でも、私もバカですよ。そんな話聞いたこともない。私がいつもスラックスだから、それにみんなからいつも男の子みたいだって言われているから、それでからかわれたんだと気がついて、すかさず言ったのです。
「先輩が、私の代わりに黒のロングスカートをはいてブラウス着てステージに出るんだったら、代わりにスーツ着てもいいですよっ。」って。
さて、その当日です。何か男の人なんか見違えちゃって。ちゃきっとしているのですよ。いつものあの様子からは、まったく想像もできないような。女の人もそれぞれに、服装に注意をはらってきて、演奏会という雰囲気がそれだけでも盛り上がっているのです。本当は、私も当日はスカートで行くなどと公言していたのに、その日の朝、スカートを取り出してはいてみてがっかりしたのです。スラックスの方がずっといいやと思って、私はいつもと変わらぬ格好で、しかも、ハァハァ言いながら演奏会場へのり込んだのです。下宿から近いはずだからというので歩いて行くことに決めたんだけど、歩いているうちに、どっちがどっちかわからなくなってしまって、自転車を修理しているおじさんや、道を掃除しているおじいさんや、バスから降りたおばさんなんかに道を聞いて、やっとのことで時間までに会場にたどり着いたのです。それで、私がいつもと変わらぬ格好で来るから、みんながスカートはどうしたの、って言うのです。似合わないからなどとは言わずに、うん、その、ステージに上がる前から、緊張してはいけないと思ったあげく考えた末・・・・・・・・・・などと言っておいたのです。
さて本番、ベルが鳴って、みな舞台裏に集まって音合わせなんかをやっている時にピッコロの人がいる方へ行ったのに、そして先輩は、確かに私がいないかと捜している様子なのに、暗いせいもあってか、ちっともここにいることに気づいてくれないのです。人をかき分けて先輩の隣へ行ってAの音を出したのに、やっぱりずっと遠くの方へ目をやって私を捜しているのです。それでもう一度、コンサートマスターのバイオリンの音に合わせて吹いたら、やっとすぐ目の前に立っている私に気がついて、「あっ」なんて言って、何か笑いをこらえた様な顔をしているのですよ。
四年生のフルートの先輩の後かチョコチョコとついてステージへ出たのだけれど、まだ暗いから大丈夫と思ったら、スカートのすそを踏んじゃってよろっと・・・・・・・・・・でも大丈夫。自分のいすに座って位置を確かめて・・・・・・・・・・照明。指揮者が入ってきて、こっちを向いて、ちょっと間があって、サッと指揮棒を降ろした瞬間、ホルンの第一音。こっちも吹き始めるまではいいのだけれど、吹き終わってから、ひざがガクガクして、いやだな、隣の人に気づかれちゃうなんて思って、何とがふるえないようにとしているうちに―あっ、と思ったら、ひとつ自分の出番を忘れちゃって。ファーストフルートが、一オクターブ上を吹いているからよかったけど。でも先輩が、落ちてもずっこけても平気な顔をしてなさいと言っていたので、知らんふりをしてました。そして吹いていて、変な事に気がついたのです。やっぱり演奏会なんだなあ。すっごく行儀よくいすに腰かけているのです。いつもはどんなにからかわれても、足を投げ出して吹いている自分なのに―。曲はどんどん進んで終楽章。口唇の皮がむけちゃってどうしようもないというのに、もう始まっちゃって、必死になって指を動かしているうちに、しんとなって、ファーストフルート、先輩のソロ。こっちまで緊張しちゃって、大丈夫かな、大丈夫かなと思っていたら、大丈夫じゃなかった。ここは大変なんだよ。でも聞いてる人には、そんなにわかんないかも知れない。指がからまっちゃったのかなくらいにしか―。修司君は、ちゃんと聞いてるかな、眠ちゃってるかも知れないな。今度家庭教師に行ったら、何をきこうかな。おねえちゃん、出てたの。なんて言うんじゃないかな。なんてチラッと考えたりして―。ジャ、ジャ、ジャ、ジャーンで曲が終わって、拍手が起こると、先輩がこっちを向いて、穴があったら入りたいよ、って言ってまっ赤な顔をしていた。さっき、ドジったことを言ってるんだな。指揮者の合図で立ったり、コンマスの動作で座ったりしているうちに、花束。指揮者が出てきてまた―なんとかやっているうちに、ステージが暗くなって、ホッとして、先輩が
「曽我さん、落ち着いているんだもの。ボクも落ち着こう落ち着こうと思っていたのに、よけいあがっちゃって。ああ穴があったら―。」
なんて言うのです。冗談ですよ。私が落ち着いていたなんて。ひざはガクガクするし、それじゃ、あれに気づかなかったんだなって思って、ちょっと安心しました。やっぱり恥ずかしいから。
次はレセプション。で、ちょっと顔を出してから、私はいざアルバイトへ。日本料理店の皿洗い。こんな日も、と思うんだけど、代わりが見つからないからしかたがないのだ・・・・・・・・・・などとは言いわけで、レセプションよりもなによりも、板前さんたちに、演奏会の様子を話している方がおもしろい。もしきょう店が暇だったら、親方も板前さんたちも、聞きにきてくれることになっていたのだけれど、やっぱり忙しかったらしい。
「こんにちはー。」と言って調理場へ入ると、みんな、「おっ、来たな。」という顔で迎えてくれる。「えっ、どうだった、なっ、あがっただろう。」なんてみんなにつっつかれて笑っていると、親方が、「やあ、ソガちゃん、悪かったなあ、客がすいたらみんなで行こうって言ってたのになあ、忙しくて、な、今井、青山、丸山。」なんて言うと、みんなが、「そうだよ、行こうと思ったんだよ。ほら、親方なんかワイシャツ着てるだろう。」って言う。見ると、板前の白衣の下にワイシャツのえりが見える。いつもは、何も着ていないんだけれど。「行こうと思ってなっ、板場でこんな格好してたら、首がすれていたいよ。いたい。」と言って首の所へ手をやる。でも、いいんだ。来てくれようと思っただけで。親方は、音楽にくわしい。ちょっと板場が暇になると、よく音楽の話をした。いつも親方のほうが私に教える立場である。曽我ちゃんはだめだな、もっと勉強しなくちゃって言って、本やレコードもくれた。調理場の中で、板前さんが私の前を急いで通る時、「こらっ、曽我ちゃん、足、邪魔だっ、切るぞっ」なんて言っても、いつも足を投げ出している私が、「今日は行儀よく座わっていたんだから、こうだよ。」ってやると、ヘェ、スカートはいてね、それは見物だったなって言って笑っている。そのうち閉店近くなってから、四年生のファゴットの親分が来て、ちょっとしゃべったあと、「きょうは、ゆっくり眠るんだぞ。」と言って、肩をポンとたたいて帰った。わかってるんだなあ―。
これで演奏会の話は、終わりだけど、演奏会まで一週間もないという時に大変なことが起きたのですよ。
ファーストフルートを吹いている四年生の先輩が、肋骨をどうかしちゃって、お医者さんへ行って、ペタンと湿布を張ったのまではいいけど、その帰り、目の前が紫色になって、気分が悪くなって、死ぬんじゃないかと思って―。
「演奏会がすぐそこにあるというのに、一月一日にテレビのアンテナを直してから、屋根の上で、飛び降りるか降りるまいか十分も悩んでから、エイッと飛び降りちゃって。それに、冬の合宿で、川を飛び越えようとして、まん中へボチャンと起ちて。あれがいけなかったんだなあ、あす。もう一度医者へ行くんだけど、それで野本にも話したけど、曽我さん、ファースト練習しておいてよ。もう、いたくて。吹けなくなるかも知れないから。」
と言って本当に苦しそうで。演奏会も終わって、その先輩も予定通りファーストを吹いて、今思うと笑い話のようだけど、大変だったのですよ。今だって笑うと痛いんだって。ゲネ・プロの前の晩も、先輩に吹けないかも知れないからと言われて。私なんか、セカンドも満足に吹けないと言うのに―。みんなが先輩がいけないんだ。演奏会の前だというのに、飛んだりはねたりして、それでどっか痛くして―。そうだ、そうだみんな先輩がいけないんだ・・・・・・・・・・。なんて言っても、もう終わっちゃった。
「雑音」 鈴木淳彦
音ほど不思議なものははい。まったく同じ音でも私達の耳には、その時々によっていろいろに変化し、それから受ける印象も様々である。なにか楽器を演奏する者はプロでもアマチュアでも常に自分の音をより良いものにしようと心がけているものである。音楽と接する者にとっては 音は価値あるものでなければならない。この点「音」という字が「値」と同様「ネ」と読まれるということはおもしろい。では価値ある音とはどのような音であろうか。
価値のない音、それは雑音でしかない。しかしその音が本当に雑音であるかどうかの判断は甚だ難しい。曲名は覚えていないがオーケストラの曲でタイプライターを使った曲がある。あの曲の作曲者はやかましい音をたてているタイプライターの音を効果的に使いそれを音楽として一つの価値ある音にしてしまっている。またこれとは逆にどんなにすばらしい音を出す演奏家でも、他の者と合せる時に、かってな音程やリズム・テンポで演奏をすれば、それはたちま雑音になってしまうであろう。
音の美しさ、価値そして音楽の良さというものは各々の主観的判断によって決められるものである。我々の周囲には様々の音楽があり各々その良さというものを持っている。そうしたものすべてを理解することは難しい。
しかし理解しようとすることによってしだいにそれぞれの音楽の良さというものがわかってくるのではなかろうか。
音楽の中にある一つの音を選ぶとき、ある者はヴァイオリンを、ある者はピアノを、又ある者はフルートをと好きな音を求めていく。主観的な音の選択である。しかしフルートを吹く者が他の音を雑音だと思わないし、他の楽器を奏する者がフルートの音を雑音だとは思わないであろう。一流のプレーヤーでない限り雑音と言えるのはまさに自分自身の音であり、一流の奏者のそれと比較すれば雑音であることを立証するには容易であろう。
しかしそれが雑音であろうとなかろうと、私は私の求めたフルートを愛し自分の好きな雑音を奏し続けていこうと思う。
題も・・・なし 近藤
最近、情況がどうも良くない方にばかり進むので、何か物を書くのが大変おっくうで、実のところこうして筆をとるのが苦痛である。しかし、よくよく考えると、案外筆無精なのかもしれない事もない。そう言えば、ヨーロッパにいる二人の友人に、今年になってから、まだ一通の手紙すら書いていない。
以前、何か書くときには、いろいろあれこれ思いながら、けっこう楽しく書いたようなきがするのではあるが、今回はそういう事もなく、このようなくだらない告白めいたものになってしまった。話しを前にもどすと、今までのところ、情況は少しも好転のきざしを見ない。今年は悪い年になりそうだという、予感は正しいように思われる。僕は別に運命論者でもないが、そういう気がするのである。だから、なにかキッカケがないかと思っている訳だが、野球じゃないけれど、かため打ちをやって、ムードを良くしたい、しなくてはと思っている。
発表会が近づいてきたけれど、これがキッカケの最初の一打になるかも知れないが、もしかしたら、僕の予感を正当化するダメおしになるかも知れない。そうしたら災難が通りすぎるのをじっと耐えて待つか、さもなくば・・・開きなおって、フルートを左に持って吹こうか、と思っている。 おしまい
冬に思うこと 島田幸子
日のあたる縁に小さな祖母の肩
夜の匂い
夜空の冷たさ
冬の夜
星は あんなにたくさん 輝いています
でもみんな・・・・・・
あの星たち みんな ひとりぼっち
あの オリオンも・・・・・・
さみしくて たまらないんです
詩 こもりや のりよ
すうっと通り抜ける風が
いつのまにかやさしくなってきて
地をはう冬達が
なんとなくあわてだした日
コンクリートの上の日だまりに
まだ生まれたばかりの春が
一人ぼっち
誰もいない歩道のわきの
裸のままの木々達に
そっと話しかけているのです
ビルとビルの間は
遠くからやって来る季節の
玄関口
そして
ホームでおしゃべりをしているのは
もう出発の用意を終えた
年老いた冬達
小松原 正
僕が手にした最初の楽器はトランペットで明石中学校時代(旧制)ブラスバンドに居て、毎日放課後練習したり月曜日朝礼の分列行進の伴奏又時々開かれる県下の演奏コンテスト等に出され 結構楽しんでいた。此の中学は兵庫県下でもハイカラな学校で夏には海岸のヨシズ張の仮設舞台で夕刻からスーザーや、民謡やワルツを演奏し夕涼みの市民に聞いて貰って居た。セーラーやゆかたを着た女学生も大勢聞きに来て、僕達の上級生はもう大張切りであった。楽器をピカピカに磨いて、服装もゆるされる範囲内で最大のオシャレをした。僕も今の言葉で云へば、すぐ悪乗りして気が乗るに任せてテンポがどんどん早くなり、タクトを振る先生に譜面台を叩かれて注意を受けることも再三であった。殆どの楽器は輸入品であったのを憶へている。今とは異なり異性と近づく機会の少ない当時の中学生にとって、ブラスバンド部員は比較的恵まれていた。したがって軟派と見られて他校の硬派には時々“ガン”をつけられた。ニキビはなやかなりし青春の思い出である。その内にトランペットは家の中で楽しめなく、又何となくあきたりなくもあり、クラリネットの重厚でトロリとした音色にひかれる様になったが、これは大変難しい楽器で特に肺圧の弱い僕には良い音色を出す為にリードを厚くすると全然音が出なかった。従って薄くけづったリードでヘラヘラと安っぽく吹いていたが、時々日向ぼっこの猫も飛び上る様なスットン狂な音が飛出すには往生した。それでも何とかドレミが鳴る様になった頃大岡山の工大の演奏会のトラに頼まれた。(この頃はK大学校に入学し音楽部に入って居た)曲はオベロンで最初に出て来るクラのソロさへ上手に唱って呉れればよいとの事、そこだけを一日前に繰返し繰返し練習して、当日そこだけは堂々と演奏したが、そのすぐ後の所で曲を見失ひ必死で譜に取付こうと試みたがそれが出来た時は曲が終った時であった。しかしオーボエやファゴットのトラさん達は本職で人間業と思へない様にバリバリ演奏し僕のようなヘナチョコが一人入っているのがほんとに申し訳ない気がした。
その頃のK大にはフリュートの上手な人が多く、何とも云へぬ上品な音色とハスにかまへたあの格好を満喫していた。すなはち「ワシもやるベェし」と父からの送金をごまかして一本を入手した。日楽の金梨地でいくらであったか記憶はない。我流で免に角吹いていたが昭和十九年海軍航空隊に予備学生で入隊。半年経って少尉に任官した時、家からフリュートを取り寄せ、上陸日にはクラブに行って一人で鳴らしていた。戦局は憂慮すべきものであったが、僕はそれ程深刻さはなかったし、死に対して他人事の様であった。
終戦后一年程田舎にひっ込んでいたが、再び混とんの東京に舞ひ戻り復学した。大学では何時とはなく部も活動を開始していた。焼けた大講堂の横の食堂で夜練習した。
この頃種子さんは中野のボロボロのアパートで地下で弟子と二人でフリュートを作っていた。僕も銀ヘッドフリュートを一本頼みに行ったが、銀の値が暴騰し結果歌口だけが銀のフリュートが作られ、取り敢えずこれで我慢して呉との事であった。足で吹子を踏みアルコールに空気を送り焔を作って溶接していたのを憶へている。種子さんにとっても苦しい戦后の時代であったろう。
僕はフリュートの末席として帝劇や日劇、青年会館で定期演奏会に出演出来たが之は時の指揮者菊池大先輩が、僕を隅の方に坐らして置いても邪魔にはなるまいとの卓見によるものであった。そして先輩の期待通り僕は演奏中音を出す事は殆どなかったようにおぼえている。
学窓を出て社会に入り軽く胸をわづらった。(之は流行であった)いきなりフリュートは中止した。暫くしてギターに手をつけ、カルカッシー等を会社の同僚と練習していたが余り熱は入らなかった。この頃は恋に多忙であった。正式にギターを習ったのは二年の米国滞在中であり、或るフラメンコギターリストとの出会ひであった。彼はジプシーで彼の楽譜は六線上に指のポジションだけを印した簡単なもので曲は耳で憶へるしかないのである。所がアパートに帰った頃曲をすっかり忘れ、もう何としても憶ひ出せない場合が常であった。一回、三十分、五弗は大金であったが、サビカスやエスクデロを夢み、何時かはあの情熱的なフラメンコを自分が弾くのだと思うと決して高いとは思はなかった。しかしその后何時になっても僕のフラメンコは進歩しなかった。
それから数年后の或る春のうららかな一日、銀座の山野楽器でショーウィンド五越しにかざたれたフリュートのメカニックの美しさに見惚れ、様々な思ひにふけっていたが終に一本を取り出して吹いている中に美しい売り場の女性のすすめに負け終に買ってしまった。そして今度は本格的に練習をしようと思ひ、先生の門を叩いたのだが、又しても数年を経過して指の障害のために断念せざるをえなくなるなんて神ならぬ身のその時は知る由もなかったのである。
梅池 松沢久子
静かな高原のただ中に不定形の建造物があった。その中で私たちは三泊四日の合宿をした。
フルートを習い始めてから音楽というものがあたかも時間とのたたかいであるかの様な思いをばく然と感じていた。
そしていつも私から身をかわしたり時には石棺の様に硬く蓋を閉じたりする“音楽”しばしば私はその激しい拒絶の谷の中に佇んでいる自分をみた。
朝早く私たちは思いおもいに林の中で練習をした。私はふと音楽が私の心にこたえてくれるのを感じた。澄んだ空気の中でそれは私の心に花束が投げこまれた様であった。私はしっかりと抱きしめたい思いにかられた。そして今私を訪れたものがこの高原の空間でしか意味をもたないものでないようにと祈った。 夕方高原特有の風がふいて遠く西の空に夏の雲が湧いた。やがて透明の夜が訪れるだろう。私は不思議に馴れない高原の夜も平安にねむれる様な気がした。 (一九七二・八月)
ハービー・マンについて 根岸良夫
ハービー・マン、カミング・ホーム・ベイビィに代表されていると言う彼の音楽。ラテン・ジャズか、とにかく、ジャズの世界を広げた人、日本へやって来た時は、宮廷の雅楽や、神田明神の一座とも共演 ジャズをよりポピュラーなものとした。次に来日する時は、シンフォニー・オケストラと共演するとか、しないとか。ピアノ・クラリネット・テナー・サックスを経てフルートへ、ワンノート・サンバのように落ち着いていてちょっぴり紳士風、メムフィス・アンダー・グランドのように、アヴァンギャルド的なもの、彼は、ジャズという小さなわくにこだわらないのでのびのびとした音楽を創造している。「アット・ザ・ヴィレジ・ゲート」「ドゥー・ザ・ボサノバ・ウィズ・ハービーマン」「メムフィス・アンダー・グランド」どのアルバムをとっても同じものはない。ポピュラー・ミュージックをジャズに変えるのもいれは、ジャズを、ポピュラーなものに変えるのは彼が、最高だと思っています。
結論として、ハービー・マンの音楽は徹底的に楽しい・・・・・・とそう言わせてもらいます。
おとぎばなしのこと 野本実
最近「メルヘンの世界」という言葉をよく聞く。たしかに、おとぎばなしは、「心のふるさと」であり、合理性追求の世界に生き、超自然的存在の幻想をやぶられた現代人の「安息の森」である。そして人間には、「永遠」というものに対する強いあこがれがある(「不老不死」とか「永遠の愛」とか・・・・・・)。しかしそのある種の「永遠なるもの」を我々は、おとぎばなしの中に今日特に強く、求めているのでは、ないだろうか。しかも[おとぎばなしと、(人間誰しも持っている)「幼い頃への回想と憧憬」との関係は、言うまでもないが、]「幼い頃への回想と憧憬」が、今日さかんに叫ばれている「人間性回復」の一つの方向として現代社会にあらわれてきていると考えられるように思うのである。
このような現代におけるおとぎばなしの位置をふまえつつ、「浦島太郎」の話を題材にして、物語の変遷とその時代時代をかんがえてみようと思う。
どうもおとぎばなしというものには、不可解な記述が多いように思われる。「カチカチ山」におけるウサギのあの詭計となぶり殺しは、いかに狸が、婆汁をくわだてたにせよ、合点が、いかない。仇討ちにしては、やり方が汚すぎる。しかしこのような例は、別として多くの場合、そうした不可解さ、とっぴさが、子供の夢をはぐくむのであろうからそれは、それでよいのであるが、しかしこうした部分には、えてして、その時代の価値観なりが封入されるようである。例えば、浦島太郎の伝説において、あのいわゆる「たまて箱」は、どうも不可解な存在である。亀をたすけたお礼の竜宮見物は、浦島にとってすばらしいものであったに違いない。たとえ竜宮での三日間が、地上での三百年であっても、たまて箱をあけたからといって三百余歳の老人と化すのは、どうも合点がいかない。我々のよく知っている浦島伝説は、こんな筋立てであった。
万葉集の記述でも、丹後国風土記でも、『お伽草子』でも、浦島が、竜宮を去る折、『けっして開けてはならぬ』と言われて、たまて箱をわたされるが、結局開けてしまうという筋は、みな同じであるが、それぞれたまて箱の意味は、違うようである。
万葉時代にも当然、物品の渡受の習慣は、あったはずであるから。いわゆる「みやげ」としてのたまて箱の登場は、うなづけるとしても、開けたら、若々しい浦島が、たちまち老人となり、息だえてしまうというのは、うなづけない。万葉集にある浦島伝説のたまて箱の登場は、裏も表もない単なる空想的話の結末として、とらえるよりしかたがない。丹後国風土記には、たまて箱を、約束に反して、あけてしまって、夫婦の契りを結んだ姫と再び会えない事を泣きかなしむというのが結びとなっており、そのあとに、姫の「自分をいつまでも忘れないでほしい」という意味の歌と、浦島の後悔と竜宮への思慕の歌がある。つまり風土記においては、たまて箱は、現世から常世への入場許可証、又は、姫と浦島とのきづなのような存在として描かれているのである。ただし、そこには、「約束はまもらねばならぬ」という道徳観念よりも、常世での神秘信仰、一つの悲哀物語としてのドラマ性を感じるのである。さらに「お伽草子」において浦島は、たまて箱をあけると鶴に変身し、丹後の国に明神としてあらわれ、衆生済度をする。一方亀も神としてあらわれ、夫婦は二世縁(現在世と未来世にわたって縁をもつという思想。ちなみに親子の縁は、一世、主従は、三世の縁。)という思想から生じたものだろう。ここで、たまて箱は、神というものに対する神秘性を生じせしめるのに利用されているのにほかならない。もっとも、もっと酷な考え方をすれば、神という神聖かつ尊厳なものを登場させる一つの道具にすぎない。さらに太宰治の小説「お伽草子」では、たまて箱をあけた浦島が、三百余歳の老人となった事に関して、不幸として扱うのではなく、この三百年かの年月と、忘却が、「人間の救い」なのであるという立場に立ってたまて箱を規定している。
たまて箱の話は、これくらいにするとして、すこし違った点に注目してみよう。浦島がいわゆる竜宮城へ行き、いくばくかの時をすごした後、故郷へもどると言い出すのは、どの記述も同じであるが、それを言いだす動機やそれに対する乙姫側の接し方は、様々である。万葉集巻九の長歌の中にあらわれた浦島伝説には、「老いもせず、死にもせずして 永き世に ありけるものを 世の中の愚人の 吾妹子に告げて 語らく 須臾は家に帰りて 父母に事も告らひ 明日のごと われはまなむ と言ひければ・・・・・・」という記述があり、また丹後国風土記には、「・・・・・・たちまち土を憶ふ心を起し 独り二親を恋ふ 故吟哀繁く 発り なげき日に益しき 女娘涙をぬぐひて なげきて日く 意は金石と等しく 共に 萬歳を期りしに 何ぞふるさとをしのびて 棄てわするることのたちまちなるといひぎ・・・・・・」とある。また「お伽草子」には、「ふるさとの父母を見すて かりそめに出でて 三年を送り候へば 父母の御事を 心もとなく候えば あひ奉りて 心やすく参り候はん・・・・・・」とある。万葉集の記述において地上返還を言い出す動機は、直接示されていない。しかし「・・・・・・愚人の・・・・・・」という語句からは、「理想郷からわざわざ地上へもどるなどおろかなことなのに・・・・・・」という意味の事を読みとれないだろうか。丹後の国風土記においては、郷里や親への思慕をその動機としている。「お伽草子」では、「親への孝」という事が、強調されている。「お伽草子」では、物語の発想からしてみえみえである。万葉集や風土記においては、釣りをしていて偶然海神の女に会うとか、釣った亀が姿うるわしき美女に変身するといった調子なのに対し、「お伽草子」では、『・・・・・・亀をひとつ釣り上げる。浦島太郎此亀にいふやう、「汝生有るものの中にも鶴は千年、亀は万年とて、命久しきものなり。忽ちここにて命をたたん事、いたはしければ、助くるなり、常には此恩を思ひ出すべし」とて、此亀をもとの海にかへしける。
かくて浦島太郎、釣をせんと思ひ見ければ、はるかの海上に、小船一艘浮べり。怪しみやすらひ見れば、美しき女房只ひとり波にゆられて、次第に太郎が立ちたる所へ著きにけり。浦島太郎が申しけるは、「御身いかなる人にてましませば、かかる恐ろしき海上に、ただ一人乗りて御入り候やらん」と申しければ、女房いひけるは、「さればさる方へ便船申して候へば、折ふし浪風荒しくて、人あたま海の中へはね入れらてしを、心ある人有りて自らをば、此はし舟にのせて放されけり。悲しく思ひ鬼の島へと行かんと、行方知らぬ折ふし、ただ今人に逢ひ参らせふらふ。此世ならぬ御縁にてこそ候へ。されば虎狼も、人をえんとこそしさふらへ」とて、さめざめと泣きにけり。浦島太郎もさしが岩水にあらざれば、あはれと思ひ綱を取りて引き寄せにけり。さて女房申しけるは、「あはれわれらを本国へ送らせ給ひてたび候へかし。これにて棄てられ参らせば、わらはは何処へ何となりさふらふべき。棄て給ひ候はば、海上にての物思ひも、同じ事にてこそ候はめ」と、かきくどきさめさめと泣きければ、浦島太郎もあはれと思ひ、同じ船に乗り、沖の方へ漕ぎ出す。かの女房の教へに従ひて、はるか十日あまりの船路を送り、ふるさとへぞ著きける。・・・・・・』というようにして物語が、はじまる。後でわかるのであるが、この女房というのは、亀の変身した姿なのである。この文章だけからもわかるように、「お伽草子」においては、人情や思いの概念が、はっきりとあらわれている。我々が、よく知っている浦島伝説の「子供にいじめられていた亀を、五文とかで買いとり海へ逃がしてやる」というも同類である。太宰治の「お伽草子」(これは、あきらかに一般の読者を念頭においたものであり、童話として直接比較するわけには、いかないが・・・・・・)においては、浦島が、地上帰還を言い出す動機を、人間の愚かな本性においているようである。つまり、いかに人間の思い描いた極地の理想郷であっても、それはもう、実際人間が住めるところではないという事を動機としているようである。
浦島伝説の古今の記述には、他にも、ほじくりだせば、きりがない程のおもしろい問題点がある。いわゆる竜宮城の描写しても、結局は、その時代その時代の人間の桃源郷として思い描いていたものだろう。その意味で、種々の記述をくらべてみる事は、おもしろい。
我々ぐらいの歳になっておとぎばなしなどにふれる事は、下手な小説や評論を読むより心に訴えるところがある場合が多いともいえる。そんなところに太宰が、「お伽草子」を書いた所以があるのだろう。「お伽草子」の中の「カチカチ山」に、いたっては、全く・・・・・・
とても急いで書いたので字も、文も読みにくいでしょうが、お許し下さい。
感じさせるもの 山本一人
作文というものは本当ににがてである。なんとかこの原稿をごまかして出すのをやめようと思ったが、この前のレッスンの時先生に叱られて必要にせまられてしまった。
さてフルートなるものちょうど一年目
まあ、ごまかし、ごまかしの練習である
ロングトーンやらず、ソノリテやらず、メトロノームも室にかざっておいてあるだけ
基礎練習なるもの、めんどうでめんどうで(ここが非凡人と凡人のちがいであります)
深く反省はしておりますが・・・・・・
でも音楽は大好きです。
モーツァルトが好きです。それを聞いていると極楽なのです。だからその曲を吹きたいのですがなかなか・・・・・・
話は変わって
私は音楽が最高の芸術だと考えております。
話は少しかたくなりますが、
バッハ、モーツァルト、ベートーベンと作曲者において千差万別でありますが、作者の表現というものが、自分なりに感じとられるような気がします。
またそれを表現する指揮者、演奏家もすばらしい芸術家だと思っております。
私もへたはへたなりに何か感じさせる、笛吹きになろうと、思っております。
荒井忠一
練習と云っても人に依って色々タイプの違ひがある事と思ふ。それが、どこでどの様にやって居るか、その態度によっても、効率の差があるであろう。
又家庭事情にも大いに支配され近隣の家々への遠慮もあって、思ふにまかせない人も居るやも知れない。それらの障害を乗り越えて行ける人、押され気味の人、或は絶えず悪友のさそひにおびやかされて泣きの涙の人、自ら悪友を買って出て練習をさぼり、レッスンには常にショボショボして居る様な人は居ないであろうが。
継続して勉強して行くには学生の様に専心それに伺って行かなければ技術の習得に永く余計な時間がかかる。
そう思って、私は会社から自宅への帰途で夕食を済ませるか或は自宅へ直行し急いですます、その間だけテレビかステレオをかける。
食後の休憩などと、落ちついても居られないですぐ譜面台を、ひろげる。
私は仕事の関係で拾年程ひとり住まいだ。そんな場合淋しい、日々を送るのが一般のゆきかたの様だが私は一人に見えてもフルートと同行二人であるのが仕合わせで家族がそばに居ないので音を出すのに何の気兼ねも要らない。
近隣の人達も、もう笛気ちがいと思うぐらいで気にもとめない様だ。そこをフルに活用して練習に励む。
学生に成ったつもりで、
私の場合技術の進歩は漫々的であり一進一退して居て実りの少ない事で、
又一回の練習でただちに修得出来るものでもない。それでまず、足もとからの征服に重点をおいて何回でも同じ曲を追求する。そんなことの繰返しであり乍ら、
常に心に充実感が湧き、私の生甲斐であると思う事と他人はしらない。説明しても理解しない。
永遠に私とフルートと二人だけのしあわせである。
私の日記から
「日本人と笛 太田原茂
日本人と笛とは、古くから生活と密着していて、切りはなせないものがある。特に大衆芸術として、人々の中に深く溶けこんでいった屋台囃子の中に、昔からの日本人に息づいている何かを感じぜずにはいられない。
演奏は、ミディアムテンポのリズムの太鼓で初まり、鮮明な鐘の音と横笛の音が「さあ、祭りだ陽気にやろうぜ」とばかりに、軽快なタッチでくりだす、その屋台囃子の中の笛の音の中に、日本人に忘れかけた、活気・粋といったものが聞こえてくる。
そんな日本のよさも仕事に追われて音楽をも楽しむ時間のないまま、過ごしてきた以前だが、今はすこしづつ時間をさき、いろいろな音楽をフルートを通じて音楽を聞いていきたいと思います。
フルートを手にすると僕は感じる 吉村誠喜
音楽はひかりのように心へさしこむ
バッハが暖炉
チャイコフスキーはペチカ
ヘンデルが教会のロウソク
モーツァルトはマッチのように輝く
ビバルディは情熱的な太陽
そして
ベートーベンは冬の夜の月のごとく・・・・・。
悲しいとき、暖まり
迷ったときは照らしてくれる
そんな音楽という友達と
もっと仲良くなろう。
一人ぐらし 藤澤冨美子
一人ぐらしは、誰にも気兼ねなく気楽だ。
たべたい時にたべ、ねたい時にね、起きたい時に起き、いやなら何もしなくても、誰にも文句をいわれない。といいたいところだが、世の中はそういいことばかりない。
たべたい時にたべ、たべたくなければたべないのはいいとしても、起きたい時に起きればいいというわけにもいかず、仕事をもっていればいやでも起きて出かけなければクビになってしまうし、それでは生活していけないからいやでも起きて出かける。
又ねたくなくとも明日の勤めのことを考えればいつまでも起きているわけにもいかず、いい加減で床に就かなければならない。
「一人で淋しくないですか」などとよく聞かれるが、長年一人でいるとそれが身についてしまって、誰かがいると落着かなくて仕事が手につかない。貧乏暇なしとはよく云ったもので毎日アクセク仕事に追われていると淋しがっている暇などないのである。仕事に関する本もろくに読めず、その他のことについては推して知るべしで早く五日制にでもならないかなあと思う此頃である。
一人ぐらしで困ることは、台風の時、何時このボロ家が吹きとばされないかと外で荒れ狂う風雨の音をきき乍らその成り行きに全神経を集中させる。台風が去って被害にない時はホッとして胸をなで下ろすのである。台風に強い建物に住んでいればこんな心配はしなくてもいいのに悲しいかなこの心配は当分つづきそうだ。或は一生つづくかもしれない。
もう一つは病気の時、余り病気もしないけれど明日にでもならないという保証はない。病気で動けなくなったらどうしようなどとたまたま考える。
世の中、いいことばかりも悪いことばかりもないから、一人ぐらしも満更ではないことにしている。
乱調音楽大辞典(作曲家編) 岩田道則
(恩師 筒井康隆先生へ捧ぐ)
A
アンダーソン Leroy Anderson 主要作品解説
「ブルータンゴ(丹後)」御当地ソングの決定版「ブルーハワイ」と並び称せられる名作。ミリオンセラー。「ワルツィングキャット」「猫、踏んじゃった」の主題による変奏曲フーガ。
B
バッハ Johann Sebastian Bach
本名はヨハンクリスだが、彼は人柄がよく、みんなからすかれ、親しみをこめて、クリスちゃんと呼ばれているうちに、いつのまにかそれが、本名となってしまった。その子の、ヨハン クリスチャンも同様。また最近、巷を騒がせている、アグネスチャンも同様であると思われる。
ベートーヴェン Ludwig van Beethoven
ナポレオンは云った。「余の辞書に『不可能』という文字はない。」
ベートーヴェンは云った。「余の耳に可聴な音はない。」
ブラームス Johannes Brahms
彼は、後出びシューマンと同様、喘息持ちであったが、クララには手を出さず、もっぱら龍角散を愛用した。
C
ケイジ John Cage
アメリカの作曲家。又は↓
「笛吹きたち」原稿原紙の作成について
- 原紙にマジックで示したわくの中に収まるように。
- ボールペン使用のこと。
- たて書きのこと。(楽譜に場合は横書き)題名 氏名を忘れずに。
- 訂正したいときは、修正液によること。(レッスン場に用意しておきます。)
- 期限 3月31日まで。
編集委員 亀井、田中(洋)、成瀬
シャブリエ Alexis Emmanuel Chabrier
アトリエ。浮世絵。場末。正眼の構え。ご新造さんへ。
ショーソン Ernest Chausson
シャンソン。漁村。曽孫。三方一両損。踊らにゃそんそん。(この項と前の項 いささかワルノリぎみ)
ショパン Frederic Chopin
特にこのパンを使って作ったサンドウィッチを「ジョルジュサンド」という。
林 光 Hikaru Hayashi
父は林 与一。弟は林 海峯。息子は林 彪
ハイドン Franz Joseph Haydn
本名不詳。ハイドンは愛称。彼はエステルハーズ公の楽団に、作曲と打楽器奏者として仕えていた。作曲家としては、偉大であるが、演奏の面では、長い休みを数えるのが不得手で、その為、指揮者が彼の出番の直前に「ハイ」と合図をする様にしていた。「ハイ」と合図するとすかさず「ドン」とやるものだから、人はいつのまにか、彼のことを、ハイドンと呼ぶ様になった。(この頃、喜多村立彦氏による。)
M
ミヨー Darius Milhaud
非凡な才能の持ち主で、ニーチェも、彼の素晴らしさを「この人を見よ」に著わし、絶賛した。
S
シェーンベルク Arnold Schonberg
実は一人の人間ではない。シェーンとベルクという人が共同で仕事をしたのである。その証拠にはベルクが単独でも作品を残している。こういった例は、他に、漫画家、藤子不二雄などがある。
シューベルト Franz Schubert
あらゆる機会に、メロディを思いついた天才作曲家。
ある時は食事中に思いついたメロディを食堂のメニューに書きつけたことは有名。またある時には、ミカンを食べている時にふと思いついたメロディからM交響曲をつくった。これは、後に「ミカン製交響曲」と呼ばれるようになった。(この頃、喜多村立彦氏による。)
シューマン Robert Schumann
夏でもないのに、ライン河へ飛び込み、それがもとで、喘息となる。以後、クララを愛用。そのコマーシャルソング(クララ=ヴィークの主題による変奏曲作品十四)まで作った。これがコマーシャルソングの草分けである。
シュターミッツ Carl Stamitz
彼はフルートの名人でもあった。トリプルタンギングの創始者として高く評価されているも、彼の舌が三つあったための必然の事で、この評価は不当であるといわねばならない。ちなみに彼の弟は、シュターヨッツである。(この頃、喜多村立彦氏による。)
スッペ Franz von suppe
本名、ふらんちぇすこ えつぇきえーれ えるめねじるど かばりーれ すっぺ だにえるり。
T
テレマン Georg Philipp Telemann
全三集からなる音楽の利用方法に革命をもたらした「ハラヘール ムジーク」は、いまなお、食欲不振をなおすために、病院などで演奏されている。
Y
山田耕作 Kosaku Yamada
問 次の文中の○の中に適当な文字をいれて、意味の通る文章にしなさい。
「いまが地下活動の○○○。○○○○に力をいれよ。」
W
ワーグナー Richard Wagner
彼は、革命的な手法で次々と新しい音楽を作り出した。聴衆は彼についてゆけず、演奏会は、いつもヤジが飛び交った。ある晩、彼は、ついに堪忍袋の尾がきれて、客にむかってどなった。
「うるさい。さわぐなア。」
アンダーソンの項、追加
「トランペット吹きの休日」「全米トランペット奏者教会」(A.B.A.A.)より委託されかかれた、デモンストレーションソング。内容はトランペット奏者にも週休二日を与えよというものである。
(増補)
E
エルガー Edward Elgar
彼が小学校時代、つづり方の宿題をやっていたところ、姉がきて、しれをのぞきこみ、
「その字は間違っているわ、エドワード。Lがぬけているわよ。」と云った。
G
グリンカ Mikhail Glinka
実は、彼は盲人であった。近所を散歩するときは、付添いの召仕いを連れていった。ある時、道路を横断する時召仕いに次の様に云った。
「もう、信号はグリーンか。」
K
ケーラー Ernesto Kohler
フルート教則本で有名。どういうわけか、弟子の名前もみなケーラーであった。その教則本でレッスンをしていた弟子たちは、あまりのむずかしさに、レッスンなかばにして、「おれ、もうけえらっ」とすてぜりふを残して帰ってしまうことで余りにも有名であった。
(この頃、喜多村立彦氏による。)
(無断記載を厳禁します。作者)
夏秋冬春 竹部直子
楽しみにしていた
夏がやって来た
私の為にやって来た
紺ぺきの空
エメラルドグリーンの海
ギラギラと輝く太陽の下で
私は はしゃぐ すべてを忘れて
なにもかも忘れて
男 ダイビング メガネ シュノーケル モリ
魚を追う それを また 私が追う
そうすることにあき
ひとり サンゴ礁で遊ぶ
素肌に炊きついた水着のあとが
今も残っている
さくばくとした 戦場ヶ原に
風が吹く
枯れた すすきがなびく中を 歩く
渡した板の上を歩く
すすきのあいだに 紫苑の朽ちたのが
立っていた
戦場ヶ原の 秋は早く
青い空の 片すみに
白いほのかな月が浮ぶ
朝の出勤
もぐら族
地下鉄の階段に むっくり
道を出す
光線にあたるもつかのま
ビルの林立
そこから 吹きおろす 風が
やけに冷たい
心の底に風が吹きぬけて行く
アスファルト ヒールの音
地下鉄の音 工事の音 車の音
そんな音もやがて夜の闇にすい込まれ
もぐらの生活が くりかえされる
潮騒に乗って
春のやさしい足音が聞こえる
ドキドキと胸のたかなりを 覚える
すめった砂の上を
裸足で駆ける
深いみどりの 海は
かがやき
これから初まろうとしている
人生の旅路に
祝福の うたを うたってくれる
春と共に
海と共に
私は 飛び立とう
生きがいについて 池辺研一
最近よく生きがいという言葉を耳にする。生きがいとはその人の年齢や社会的責任、環境などによって当然変わって来る物だと思う。僕の生きがいとは―― 今を一生懸命生きる―― ことである。親のスネをカジッテいる今と独立して妻子を養うようになった時とでは当然それは違って来ると思う。おそらくその時の生きがいとは―― 妻子を物的に不自由させない―― ことになって来るだろうし、また生活が安定して来れば社会的な責任が、生きがいになって来るだろう。また戦渦のベトナムでは生きがいとはまさに―― 生きるとこ―― であるだろう。しかしこの同じ生きるでも僕のとでは言葉の重さが違って来る。
最近、生きがいのもとである―― 生きること―― がどんなに大変であるか自分なりに感じて来た。それは大学の友人の下宿に行った時のことである。「朝から即席ラーメン食っているんだ」と共同の炊事場でおナベを洗っていた友人の言葉は、クラブで遅く帰った時など、おかずが冷たいなどと文句をいう僕にとっては、本当に大変そうに思えた。そして自分の学費まで自分で稼ぐ人さえいるなどと聞くと、生きてゆくことは大変だなと思いその大変さが少しはわかって来た。
生きることの大変さがわかってこそ本当の―― 生きがい―― という言葉の意味がわかって来るのではないかと思う。昭和元禄と言われるこの時代、何不自由なく、すくなくとも生きることに危機感を感じないこの時代に、生きがい、生きがい、などとわめく前に、生きることの大変さを再認識する必要があるのではないかと考えるのだが。
「ひとりの山」 白川幹夫
谷川岳といえば、冬は気症の変化が非常に厳しい山で、よく遭難者をだしているが、夏や秋の尾根歩きは東京から夜行日帰りで行ける手頃なハイキングコースになっている。数年前の秋、ここに一人で登った。山に行くときは普通二,三人で行くのだが何となく一人で登りたい気分になることがある。一人だと事前に地図をたよりにかなり入念にコースや時間を調べなければならないし、又、いくら地図で確認して行っても、登るべき道がさがしだせなかったり、道が二つに分かれていてどちらをとったらよいか迷うこともしばしば起る。こんなとき一人だと、その場その場の状況判断で自分で決めなければない。ときどき自分を公ういう状況においてみたくなる。
上越線で水上を過ぎると土合駅がある。上野から夜行に乗ると午前四時頃土合に着き、まだ暗い道を四〇分程歩くとマチガ沢出合に出る。このあたりで夜も明け、眼前に急に谷川岳がそびえ立つ。ここからみた谷川岳のモルゲンロートは、ちょっとこの世のものと思えない程すごい姿になり、二〇〇〇米にも満たないこの山がどうしてこんなにきびしい姿をしているのかただただ驚くばかりです。マチガ沢から西黒尾根に出る道は厳剛新道と呼ばれ、西黒尾根からかなり急な道を一時間半程登れば頂上です。頂上からマチガ沢や一ノ倉沢をみおろして天神尾根を下れば夕方には谷川温泉に下れます。ここで温泉にでもつかれば、山の新鮮な空気を吸い、ちっちゃな事だけど自分で計画しそれをやりとげたという気分も味わえてなかなかいいものです。
成瀬忠
何を書こうかと迷っているうちに二月になってしまった。
「笛吹きたち」に書くのだから音楽のことに限定した方が良いのではないかと思ったり、日頃の自分の生活とか、社会問題や仕事のことについて書いてみようかと思ったり、あれこれ考えてペンをとるにはとってみたが、2,3行で手がぴたりと止まりそこから先が進まない。
去年の夏、石原先生のレッスンを受けている仲間と楽しい(きびしい?)合宿の何日かを過ごした中で、秋になったら発表会、レクリエーション、「笛吹きたち」の編集の各委員を選挙しようということになった。その投票の結果、どれかは引受けなければならないことになった。
もっともいつもお世話になっている以上、何かお役に立たねばという気持ちがあるにはあったが、誰かほかの人がやってくれないかなという気持も入り交りながらも、「笛吹きたち」の編集を引受けてしまった。
なぜそんな気持ちが働いたかとえれば、創刊号が非常に手のこんだ立派な仕事であるということが、あれを手にしたときに強い第一印象があったから。自分がこの仕事を引受けて急にレベルダウンしては申し分けないし、この創刊号を編集して下さった松沢さん、田中(洋子)さんのようなていねいな仕事をする自信が全々ないからである。
しかし今回は、亀井さん、田中(洋子)さんの三人で松沢さんの応援を期待しつつとにかくやっていきたいと思う。
創刊号と同じ手作りの味を保ちながら、何か方法はないかと思い三人で話合ったところ、各自の原稿をそれぞれ自身の手で切っていただくのも面白い味がでるのではないかということになった。またこの方法は「笛吹きたち」をこの先永く持続させていくには良い方法ではないかと思う。
皆さんの御賛同がいただければこの方法で進めていきたいと思います。御多忙のところお手数かけますがよろしくお願いいたします。
雑感 ― ある追いつめられた男の独白 ― 長沼明久
「ああ、もうだめだ!!」男はそう叫ぶと潔くその場に座ると静かに目を閉じた。
と、まあ 今の心境はこんなものなのですよ。
勿論、小生をここまで追いつめたにっくき相手は言うまでもなくこの原稿なのです。
期限の3月31日はもう過ぎ今は原稿をもって行くことになったのです。今 北軽井沢でこの原稿を書いているのです。(実はウソ)
そうだ、今日は4月1日すべてウソなのではないかと思ったが、こんなふらちなことを考える者もいるだろうと期限を3月末日にしたのでしょうか。
とにかくこうなった限りは何か書かなければならないのです。こんな時何を書けばいいのでしょう。
そう こういう時は 詩をかけはいいのでしょう。
という訳で次の詩が人前に現れることになったのです。
ランプの焔が ゆれる度に
きれいな夢が一つずつ
遠くの空に消えて行く
雨戸をたてた窓越しに
しぶきの声がはねかえる
雷様もおちるよう
量子詮に胸ときめかすこともなく
青い影の少女を忍ぶABCも唱えず
時の思いのこもる品もなく
気味に手紙の出せないような
こんな春の晩には
きっとふくろう達も
獲物をあきらめて眠りこむことだろう。
4月1日
北軽井沢ミュージークホールにて
(P.S)実はこの文及び詩のようなものは今、何と青山のレッスン場で書いている(書かされている?)のですよ。北軽で書いた原紙は縦横の意味をとり違えていたのです。しかしあのプリントはまちがえますよ。ホント
『履歴書』 和田高幸
この小文のために筆を執った理由は渡航に際し異国での不慮の事故に備えてうめぼく自身の立場を弁明しておきたいという意志、そして何よりもぼくの過去を所有すること甚だしかったあるピアニストとの関係を断ち切ったことから生じる精神的不均衡を是正する為と彼女のぼくに対する理解の浅薄さを告発する為である。
さりとてすべてを語り尽くすことはできない。ただ素直に回想してみよう。思いつくままに筆を進めようと思う。
新しい出発が再び偽満で彩られることがあってはならないから。
× × ×
ぼくの先祖は船大工である。紀州のお殿様の御用船を作っていたそうである。御一新(維新)の頃、大阪は難波島で洋船をやり始めたのがぼくの曽祖父、そして祖父に受継がれて黄金時代を形成することになる、いわば、日本の造船界の草創である。
父は大正五年の生まれ、造船界活況の最盛期、船成金続出する世相の中、木造船最大級二千五百頓余りの「永保丸」進水の日にこの世の光を見た。後継者とはならなかったが、生一本な職人気質を有った頭のカタい人物である。
× × ×
ぼくは紀州で生まれ、大阪で育った。大切にされて順調に成長した。穏やかで平凡な家庭ではあった。しかし、それは乱されることになる。ぼくの病気はその前兆だったか。お伊勢参りの帰途泉熱に感染、その後腎臓をやられ腸をやられて続け様に三度の大病を経たことになる。三度続けばもう大丈夫と人様から励まされた頃、これは確か小学校の三年生の頃だ。
その頃父はいくつかの会社の役員をしていたが、化繊相場の大暴落に依り東洋物産の粉飾が明るみに出て、当時では戦後最高の負債で倒産して以来、わが家の事情も幾分変わることになる。ぼくの病気に寄せられた見舞品の山が全快と同時に幼い乍ら空しく感じた。
× × ×
小学校の頃のぼくは丸々とふとっていて元気のいい子供だった。(今も元気はいいが。)得意科目は、体育と図画工作、それに音楽。更に加えるならば、家庭科。学校での成績はどびきりよかった方ではないが頭は決して悪い方ではなかったから色々な先生方からよくして頂いた。しかし今だに御思に報いていない、――悲し。
学校の成績なんかどうでもいいのだ。小学生は腕白坊主なのだ。でも反骨精神と悪戯が旺盛過すぎる為に親の呼び出しも少なからず。とはいうものの、ぼくの上手がいたよ。あいつのお母さんの顔ほどよく見かけたものはなかった。
× × ×
ぼくが小学校の時、いちばNお世話になったのはお手伝いの伊っちゃんである彼女は身の回りは勿論、宿題のお手伝いから遊び相手まで務めてくれた。ぼくも弟も彼女をおねえちゃんと呼んで慕った。彼女は料理や編物もうまくやった。屹度いい奥さんになっているにちがいない。
× × ×
家の斜陽に反比例して、ぼくはすくすくと成長した訳だが、高等学校に入学した頃ある女性と知り合うことになる。それは決して劇的なものではなく、穏やかな春風みたいなものであった。そのイメージは完全に精神の美的構造の中で昇華さて、完璧な女性の理想像をぼくは彼女の中に追求することになる。彼女は春風のように快く、かく何も語らなかった。(まソイメージとして絵画的に)完成されたのである。完成されたイメージに遭遇した場合、人間はそれを守ろうとする。最は悲劇で終わることがわかっていても・・・・・。
彼女との出会いは何であったか。それは、世間を知らない純情な年若い女性の脆弱さからくる不安感の高揚、そして彼女の音楽的可能性に対する思いやりといった感情でもあった。ぼくは衝動的に恋をした訳ではない。好きとか嫌いとかいう感情は、初めはなかった。しかし、本人のことを次第に知るにつけ、ぼくの頭は彼女に占領された。意識の頂上にひとりの女がのぼった。ぼくは、その時点で本格的な恋に陥ち込んだ。つまり、ぼくにとって彼女が全存在となるのだ。なし得る行為の全ては彼女に集約されるという論理になるのである。
この辺でペンを執る手を休めたい。彼女のことはこれ以上触れまいと思う。いつか機会があったら続きを書きたい。中途半端だが御了承願いたい。これからお茶を飲んで簡単な年譜を作ってみようと思う。
× × ×
一九五〇 和歌山市玉藻町に生まれる。
一九五七~六三(常盤小学校時代)
毎年学級委員を務め先生のお手伝い忙し、親もPTA忙し●選抜されて合唱団員となる(音楽行事に忙し)●ラグビー、スキーに忙し●家庭科(お料理)の時間が待遠しい毎日。
一九六三~六六(文の里中学校時代)
学業著しく怠り遊びに夢中●江戸期の好色本、色絵の類いガリ版現代風出版及び廉価配布発覚、大目玉●学内ポルノブーム騒然ボーリング熱さかん(時代の先取りの早いこと)●最悪の成績を記録、高校進学危ぶまる。
一九六六~六九(追手門学院高等学部時代)
共学というたてまえなのに男子ばかりのクラスに編入される。●先祖ゆずりの無鉄砲行く末を知らず●K君と知遇、読書に没頭する●自然科学書を忠に広汎に乱読●自治会役員に立候補、毎期落選、後輩に慕われる●ブラスバンドに一時置籍、コーチ愛す●自治会文化部長学院祭実行委員長として活躍●幾多の評論を発表●時差出勤(通学)、毎日郊外の河原で朝寝、仲間も増える、煙草の味も知る●英会話を習い始める●授業をまともに受けたためしなし、授業中はよく寝たものだ●勉強は専ら独学、学校の教育方針と、文化的不幸と、バカとしかいいようのない教師と生徒に反発●運動不足と飲酒の為にゼイ肉が増える●志望校の入試に失敗●それと同じくして最愛の女性の芸大合格を知る●やまおなく上京。
一九六九~七二(法政大学英文科時代)
入学前にスキー場で春を過す●突然病魔に襲われ帰阪、高熱にうなされる●上京して下宿暮し、閑にして佗しい毎日●生命の火を拡大する為に全ての可能性に努力を払う●挫折と絶望のレピート●作品集「処女航海」を出版●その明くる年渡英、倫敦にて英語を学ぶ傍らゴルフとお茶のパーティーに興じる●アボンから十数マイルの田舎にて、シェイクスピアを想い、オックスフォード出の若者と酒を飲み、大和撫子と床を共にして翌朝はミルクマンの鐘の音にホテルを飛び出した数日間もあった●お茶と生け花の精神を悟る●キモノを愛す●友人の来訪があると室内楽に興じる頃。
一九七三
落ち着いたお正月●タコ上げ、コマまわし、スゴロクこそしなかったが●百人一首のカルタとり、花札、麻雀は盛ん●酒を浴びて入る風呂は心臓がときめいてよくない●でも独特の快感がある●訣別と出発。
ⓒ1973 TAKAYUKI WADA
=追伸=(遺言状にかえて)
来月の二〇日を以て暫く母国を離れる予定です。短期間(約一年、都合で二年位)の滞在ですが、異国のことですのでどんな事故が発生しないとも限りません。ぼくは、無鉄砲な性ですので、万が一命を失くした場合を考えて遺言を書いておきます。
生来、ぼくは職人気質を受継いでおりますが貧困な教育のために中途半端な芸術家気質が数年来頭をもたげてきたのです。従って大胆な量の著作の数々が未整理のまま、自宅の本箱に眠っております。つまりぼくが地獄に落ちた時、その著作権を差し上げたいのです。誰にしようかと迷っております。(まあ、迷惑そうな顔をしないで下さい。)
著作権を与える条件。
その一、ぼくを完全に理解しているという強い確信のもてる人。
その二、自分のために利用しない人。その三、聡明で実行力があり暇もある人。その四、もし、ぼくが生きて帰ったらお嫁さんになってくれる人。(まあ、いないネ。)ただし美女に限る。
以上尾条件を充たせる人にゆずります。アタシこそはと思われる方は左記の何れかに御連絡下さい。
大阪市住吉区長居町東五の二十九の二
Western Australian Institute of Technology Perth,Western Australia
=追伸の追伸=(広告欄)
拙著『処女航海』(十代の作品集、エッセイ的芸術論の珠玉!)
残部ワズカ、限定五百部 ⓒ1971
領価五百園(将来値上り必死、署名入り)
申込受付中
× × ×
=追伸の追伸の追伸=
イダイ(偉大それとも違大?)なる芸術家
和田高幸氏渡豪中につき、やむなく編集委員亀井が乱筆ながら代筆させていただきました。和田氏の筆跡が紙面に表れず残念です。
『何故私はフルートを吹いているのか』 田中美津江
友達に逢うとすぐ、「まだフルート吹いているの?」とあきれ顔に言われます。それで何故フルートを吹いているかという事について書いてみました。
私は元来、音楽というものはどういうものか、など少しもわからない。その私が、どうして楽器を手にする様になったかというと、中学一年の時クラスに好ましい男性がいて彼がクラリネットを吹いていたからである。単純な私はすぐブラスバンドというクラブに入部してクラリネットを手にすることになった。
生まれてから、さわった楽器というとトライアングルとハーモニカ程度である私がクラリネットという黒いたて長の楽器を手にして楽譜を読むのである。その苦労は並たいていではなかった。にもかかわらず、クラリネットは全部で九人いて私はいつもサードを吹かされ、主旋律など楽譜に出て来た事などない。クラリネットはタンギングが非常にむずかしく(私にとって)16音譜などとっても私にはできない。吹き過ぎると口が痛い。吹いている顔がふぐの様になるという理由で高校に行ったら絶対フルートを吹こうなどと中学在学中から思っていたものだった。高校に入学し、念願のフルートを手にできた私は暇があるとフルートを吹いた。それが習慣になってしまい、今でもフルートを吹いている。こんな私であるから音楽性も何もないのであるが、この頃ようやくフルートを通じて音楽というものが好きになりつつある。
楽典なども読んでみたいなと思うし、意欲に燃えているのである。結論として、『私はフルートという楽器が大好きだから吹いている』ということになりそうである。おわり
『ある会話らしからめ会話』 亀井周二
「おい!ところでお前さん、お前さんはどんな女性に魅力を感じるかい。」
「そうねー、素朴って言葉で表現されるような美しさをもった人だな。そう建築にたとえるならばキンキラキンの金色やハデな緑や朱色をベタベタ塗りたくった柱や彫刻でできた、日光の東照宮の陽明門のような華やかなものは決して美しいと感じないな。むしろ逆にハキ気をもよおすよ。
それよりも奈良や京都にある白壁とこげ茶の柱のあまり色を使わない自然なままの素朴なそんな美しさを持った女性に魅力を感じるよ。
又音楽にたとえるならばモーツァルトのフルート協奏曲のような華やかな美しさよりもむしろバッハのフルートソナタに感じるような素朴な美しさに僕はひかれる。ところでバッハのフルートソナタを聞いていると教会カンタータやマタイ受難曲において見出されるところの彼の信仰がたとえ間接的にではあってもやはり見い出される。
とにかく僕が好きになるのは、素朴なかざらないいつまでみていても決して美人じゃないが見あきない人がいいな。そのような人なら君は読んだかどうか知らないがドエトエフスキーの『罪と罰』に出てくるソーニャのように世間からは売春婦とののしられた境遇にある人でもお嫁さんに是非欲しいよ。
ソーニャってのは不思議な女性だね。あのような普通の人から見るならば汚れた中に生きていながら普通の人の持つことのできない天使のような清らかさを持っているからな。俺はそのソーニャのあの殺人犯ラスコーリニコフに対する愛の中にキリストを見い出すよ。ソーニャのあの愛が彼を自主させたのだ。回心させたのだ。そうあれはまさに復活なのだ。」
「ところで今までお前さんの話を聞いていたが、お前さん、ちょっと変わっているなー。」
「まあ、訳のわからないことを話してばかりいると思うかも知れないがこんなこと年に一度だからしばらく忍耐してくれよ。
ドストエフスキーの小説を読んでいると他の人は又自分と異なった理解の仕方をするだろうがそれはろれでよいと思う。とにかく実に味わいのある言葉を見い出すよ。その一つだけれどね、『カラマゾフの兄弟』の中でゾシマ長老はこんなことを言っているんだ。
『論理よりもまず愛することです。必ず論理よりも愛が先でなければならない。そうなって、初めて意義(つまり倫理)もわかるのです。』
我々人間の存在は論理というか理性というか、科学的認識というか、そのような視点からだけでは正しく取らえることができないよ。」
「そうだなー、俺なんか、論理的に自分はこうすべきだとわかっていても現実は逆だったりすることがよくあるよ。」
「人間が人間として生きていくには論理を超えた何かが必要なんだ。」
「それをドストエフスキーは愛という表現を使っているんだな。」
「ところが彼の愛はちょっと違っているんだ。彼は真の愛が現実となるとき、それは空想的な抽象的な愛に比べて残酷な恐しいものだ。と言うんだよ。普通愛は甘くやさしいものと受けとるだろ。しかし彼は恐しいものだと言うんだ。」
「そうかー、そんなこと言っているのか。でも俺わかるような気もするよ。愛するがゆえに自己に対しても又他者に対しても厳しく審く時が必要な時もあるからな。
おい!俺もうねむたいよ。お前の言っていること、だんだん複雑になってくるよ。」
「うん、じゃ寝るか。」
田宮治雄
拝啓
長かった冬もようやく終り、梅の花が咲きみだれる今日このごろですが、皆様いかがお過ごしですか。私、このたび石原先生にお教えいただくことになりました田宮と申す者でございます。今後、皆様には何かとご迷惑をおかけしてしまうことが多いと思いますが、なにとぞよろしくお願い致します。
さて、自己紹介でもと思いましたが、このような場所をお借りしては、皆様がご存知ないことをいいことにあることないこと勝手に書き並べてしまいそうで、現実の低俗なる私を紹介することになりません。そこで、いつの日かお会いできます時に皆様がお受けになられる印象をもって自己紹介にかえさせていただきたく思っています。そして、はなはだ失礼とは思いますが、ここでは、私の音楽に関するつたなに感想を若干気持りまして述べさせていただきたいと思います。ただし、私はまったくの俗世界的人間でありますので、このような程度の高い事を考えますのは、ごくまれでありますことを申し添えます。
数年前よりのバロックブームで、原典に忠実に演奏しようとする傾向が目立っております。私は、これを喜ばしく思う者の一人であります。しかし、原典に忠実な演奏を最上のものとし、意を表すことができません。まして、曲の解釈を統一化、形式化しようとする動きに対しては、反発すら感じてしまうのであります。
かつて、大学における講義の中で、N教授が次のように論じられました。「マルクスは19世紀に生きた人間である。それゆえ、その著作『資本論』に一字一句を現代に適用させようとしても無理である。その意味では、確かに『資本論』は死文化している。しかし『資本論』を書いているマルクスが当時の社会を見つめ、これではいけないと考え、その原因を分析しようとした態度、これこそ現代に生を受けた我々が『資本論』から読みとらねばならぬものである。」と。私は、別にマルクス経済学を専攻しているわけではありませんが、このことばは今も頭の片すみに忘れることなく残っています。
ここに場違いなことを引用致しましたのは、ほかでもありません。音楽も同様に考えられるとおもうからであります。一つの曲を演奏しようとする時に、原典を顧みることは不可欠であります。しかし、それのみでは音楽とはいえないと思います。また、有名は演奏家の解釈をそのままくり返すだけの演奏も音楽とはいえないと思います。演奏者の魂がどこかに行ってしまっているからです。音楽は、それがどんな昔に作曲されたものであっても、現代に生きる私達によって生命を与えられる性質のものであると思います。原典を通して作曲しているバッハやヘンデルの精神をくみとり、自己の内に感じとって、曲の演奏を媒介としてそれを表現するということ、このような創造性、私なりにもうしますならば「若さ」こそ音楽の柱となるべきものではないでしょうか。そのためにこそ原典の研究、原典に忠実な演奏が必要とされるものと思います。これらは、演奏に致るまでのある最も重要な手段であると思います。音楽が車に考古や歴史の域にとどまるものであるとすれば、悲しいことであります。
このような意味において、私は、ジャック・ルーシェやスィングル・シンガーズの演奏少なからず共鳴するところがあります。ところが、彼等のまねをしたところで、音楽は死んでしまいます。やはり、自分なりに原典にとり組み、そこから導き出した音楽でないと後に白々しさが残るだけです。私は、このように考え、今後の石原先生のレッスンを受けていくつもりでおります。
はじめての席で出すぎがことがありましたらお許し下さい。これにて筆を置かせていただきます。
一九七三年三月一日
石原門下の皆様へ
<追伸>
石原先生へお詫び
本文の内容とレッスンのできとの間に著しい開きがありますことをお詫び申し上げます。
ピアノ・クラリネット・フルート・リコーダー・楽譜出版 南谷周三郎
Aさんが、ピアノを始めたのは、小学校三年の頃である。
“A君は、とても、唱歌が上手です”と、学校の先生におだてられた両親が、Aさんを、上野の音楽学校の児童音楽園に入れたのである。この児童音楽園は、今でいうと、英才教育の学校で、教える先生も、そうそうたる大先生であった。
入れられた彼は、ピアノを練習させられ、歌わさせられた。レッスンをさぼる為に、指に包帯をまき、毎週水曜と土曜に、上野の山を、斜めに横ぎって、音楽園に通った。さぼっていても、バイエル、ツェツニー、ハノン、そしてソナチネと進んでいった。
Aさんは、毎年、秋を心待ちにまった。当時の上野の山の秋は、今は想像もつかない程美しかった。その落葉の中に、たくさんのどんぐりが顔を出していた。Aさんは、熱いじゅうたんのような落葉をふんで、どんぐりを拾った。まるい玉のようなもの、細長いもの、いろいろな形のものがあった。きづのない、表面のつややかなものを、楽譜を入れるカバンに入れた。動物園の前を、急いで帰るAさんのカバンの中で、どんぐりが、ガサガサと音をたてた。
家へ帰ったAさんのたのしみは、どんぐりをみがいて、ながめることであった。茶色に光るどんぐりは、ハイキングの好きなAさんにとって、山の秋そのものであった。笠のところに、マッチの棒をさして、独楽にして、あそんだ。字の通り、中学校の受験準備の合間に、独り楽しんだ。音楽よりもおもしろかった。
Aさんの、この楽しみは、中学校へ入学すると同時に、消え去ってしまった。ピアノの苦しみと一緒に、である。
それから、二十年が過ぎた。
Aさんは、自ら、楽器を楽しむなんて、思っても見なかった。Aさんの家には、楽器らしいものは何もなかった。
冬の、ある寒い晩、Aさんは、いささか酔っぱらって、銀座の表通りを歩いていた。少年時代のどんぐりのことを想い出していたのかも知れない。Aさんの大好きな、モーツァルトのクラリネット協奏曲のメロディーが頭の中にあったのかも知れない。Aさんは、通りがかった楽器店に入ると、目に入ったクラリネットの前に立った。値段は二万円であった。楽器の好いわるいなんていうことは考えなかった。ただ、むしょうに買いたくなったのである。
クラリネットをかかえて、店を出たAさNは、やっぱり、酔った勢いで買ったんだと、自分に言ってきかせた。どんぐりの事や、クラリネット協奏曲と、このクラリネットを、くっつけることは、少し、話がロマンチックすぎると思ったからである。
それから、また一年が過ぎた。
Aさんは、N楽器店のクラリネット教室に入って、頑張っていた。上達しないのを楽器のせいにして、楽器もクランポンにかわっていた。リードカッターも買った。“リードの調整の仕方”という本も買った。教則本だけは、二百五十円のが、未だ終らなかった。
そのAさんが、クラリネットをやめたのは、翌年の夏のことである。汗かきのAさんにとって、クラリネットの練習は、たまらなかったからである。素っぱだかで、さるまた一枚、タオルではち巻きをしているAさんの姿は、そろそろ年頃になりかけた娘さんの教育上もよろしくないとも思ったからでもある。男兄弟だけで育ったAさんにとって、女の子を生んだことが、これほどうらめしく思われたことはなかったのである。
Aさんのクラリネットに代ったのは、フルートである。クラリネットとちがって、フルートを吹いている時は、シャツ一枚ちがった。Aさんは、その年は、涼しい夏を過した。そして、娘さんを前にしても、少しは、ノーブルな恰好であった。少しは、と言ったのは、裸が、ランニングに変わった丈であったからである。
I先生に教わるようになった。Aさんの子供達も、I先生に、フルートを教わった。Aさんは、I先生の、自分に対する態度と子供達に対する態度のちがいを意識した。進歩しない人間に対するいたわりと、進歩しようとする人間に対するきびしさとであった。いくら練習してもAさんの指は、動こうとしなかったし、そして、フルートは鳴ろうとしなかった。I先生の、おほめの言葉は、激励の言葉であり、それは更に、なぐさめの言葉であった。子供達は、アルテの第二巻を終ろうとしている。Aさんは、やっと第一巻を終ったばかりである。
子供達の練習をみているAさんのなさけない気持は、諦めという表現で解決するより仕方のないものであった。
Aさんは、気の多い人である。飛行機や船の模型をつくるのも好きである。日曜大工も好きである。そして、今は楽器作りもやっている。チェンバロである。楽器にしても、色々なものをいじりたくなる。
Aさんが、商用でロンドンを訪れた時に、ピカデリーで見たのが、リコーダーとの出会いである。日本の尺八にちょっと似ている。Aさんは、形に魅せられて、リコーダーを買った。何とも、ノーブルな形をしているので、部屋の飾りにでもしようと思ったのである。それが証拠には、Aさんは、しばらくは、教則本を持っていなかった。勿論、音を出したことはあったが、実のところ、そんなに、良い音とは、思っていなかった。
Aさんは、何時頃どうして、リコーダーが好きになったか、どうしても想い出せなかった。子供達が小学校で吹いた音を、きいたからかも知れない。いや、朝のラジオ放送を聞いたからかも知れない。何れにしても、現在、Aさんは、リコーダーを最高に楽しんでいる。というのは、胃の手術をしたAさんは、腹がいたくて、フルートをふけないことに、満足している。今まで、腹をつかって正しいブレスをしていたことに気がついたからである。それから、もう一つうれしいこと。Aさんは、リコーダーの、腕が上がった様な気がして、ますます、ご機嫌である。Aさんは、腹の傷口を気にしながら、そっと息を吹きこむ。この要領は、胃を手術して、やっと、体得したのである。
Aさんは、大学では、法律を勉強した。卒業して、貿易会社につとめた。十年程して、兄さんの会社へ入った。プラスチックの成型業である。それから、プラスチックの機会を作った。そして、今は、楽譜の出版をしている。言い忘れたが、中学校の時は、外交官になろうと思ったし、もっと前には、或は、音楽家になろうと思ったことさえあった。いろんなことをやって来た自分の過去を、Aさんは、心の底から、満足している訳ではない。自分が一度きめたことを最後までやり通すというモラルと、大学を卒業したばかりの青二才が、一生を懸ける仕事をきめるなんていうことは出来っこないという信念とが、交錯している。Aさんは、もう五十近い。この交錯に対して結論を出している訳ではない。ただ、現在、楽譜の出版という仕事をしていることについて、これでいいんだ、青い鳥を探したんだというのが、Aさんの此頃の感慨のようである。
ぼくの短き体験記 徳植俊之
ぼくは今年からフルートの仲間入りをさせていただくことになった徳植です。よろしくお願いします。
何かsの音色にひかれフルートを手に入れてからは悪戦苦闘の毎日でした。ぼくがその時経験したショッキングなお話をします。
話せば短くなりますが、母がある人と電話をかけていました。その時、ぼくは音を出すために大変苦労しながら、フルートを吹いていました。しかし、それが、ぼくの不運であったのです。電話の相手はその音を聞きつけ、なんと、とうふ屋のラッパとまちがえてしまったのです。だが、ぼくは思いました。
「とうふ屋でもいい、音は出た。」
次は、中学一年生のぼくが、広き社公会へ出た時の話しです。
そう、あれは、外では木枯らしがピューピューとふいていた寒い日の夜でした。ぼくは机に向かい勉強していました。
(半分寝ていたかもしれません。)ちょうどその時、石焼きいも屋の、あの腹にしみいるような、なつかしの音が聞こえてきました。ぼくは、これは、ちょうどいいと思ってすぐ飛び出して行きました。その時以来、そのおじさんとすっかり親しくなりました。そして、焼きいもを買うときは、必ずそのおじさんのところで、買うことにしているのでアリマス。
焼いもや はらにしみいる かねのおと
雑感 染谷洋子
私の職場は当時流行の科学に関する情報産業を行っている所です。数年前までは、社名だけでスパイのようなイメージを持たれることがあります。
ここの職場は名目作りが多数いるせいなのかどうかは判明しないが、実に雑多なサークルが存在しております。
私もちょっと前まで室内楽のサークルにおりました。
人は子供の時代を追想してみると、何らかの夢を持ったにちがいない。私も大きくなるたびに変化したものでした。
音楽に関していうと、バイオリンを習いたいという時がありました。
あの習いたての時を想像してみて下さい。
今、思うと父の弦楽器に対する一つの障害があのイメージではなかったかと思います。―イメージでも先入観のはいっているものは弊害が多くてかなわない。
ところが大人になって自分の身近で奏でている人たちをみかけると子供の時の憧れが生起することがあると思います。
私は室内楽のメンバーになりました。
その構成と私の体格からビオラを持ち、アルト記号に悩み、まして一番音程に悩まされました。
私たちは意気投合した家族構成をなしていました。昼休みは個人練習、仕事が終ると合奏をしたものです。夏には合宿もしました。汽車に乗り遅れそうになり、大きなコントラバスと一緒に大道を闊歩したこともあります。コントラバスは、皆の大荷物、それより新まえのビオラが一番の手のかかる厄介者であったにちがいありません。
ある時、センター(職場の通称)に冷たい風が吹き、皆練習のできない時期があり、そんな中で一人二人と抜け、いつの間にかしない楽になってしまっていました。
それから、ビデオもサークル室の棚にしまってしまいました。
今はフルートをやっております。
ある知人が念力による執念で成就するということを云っておりますが、私にはそんなまでおよびません
上手になりたいとしきりに思うけれど、怠け根性に支配され練習がそれに批判しないのが実状です。
それにしても、私はフルートが好きなのです。
堕ちてくる音としての音楽 亀沢記
東京では二がの登ってくるということもない。
暖かいといっても、やはりずいぶんと冷え込む午前六時の寒気が僕の内側にしのび入ってくるように、いつの間にか辺りは明るくなってゆく。無数の人造物や、スモッグという人造雲が旭日という自然を防げているということでなく、太陽によって刻印される時間のリズムから隔絶しようとする何ものかが、僕等をつき動かしているに違いない。東京から四季の情緒が失われてゆくといったことをいっているのではない。僕はそういうことを嘆かわしいとの何とも思ったことはない。少なくとも、僕には、感覚のレベルでどんな過去も感得できないから、どんな嘆声も知らない。ただ僕は、僕等の周りにリズムを喪失した自然があるならば、(それも又、自然といっておくとして)それは、そこに僕等の意志があるからだと思うだけである。勿論、「精神一統何事か・・・」という様な処世の便法とは何の関係もない意志であり、矛盾するようでも、それは宿命というものに近い。宿命とは悲しみの側から見られた意志だからである。或は又、意志によって浮上した生といってもよいものだからである。だから、僕等を密に取り巻いて、東京は、日本の近代の意志によって浮遊している。僕等はその様に僕等をつき動かしているものが、僕等自身の意志であることに普断思い至らないでいるだけである。だが宿命は僕等の外側にあるものではない。その意味で、ある人間の経過した時間が、その人間の総てであり、「時が解決する」ということの本当の根拠も又、そこにある。
逆説的にいうことはやめよう。勿論、リズムを喪失して自然などある筈がないのだ。時は流れ、僕等は死を逃れることができない。僕等の意志とは、僕等にとって固有の時間を発見することに他ならない。このことが僕等を異相の自然を見ることに導くのであり、僕等が言葉と出合うのはこの「自然」の中である。そして結局、僕等の経験とはこういうことをいうのだと言い得てしまうと、それは又、言葉の遊びに流れてします。
今、こういう思考に僕を促した朝の寒気の中で、古い教会の音楽が鳴っている。こういう種類の音楽に関して僕はどれほどのことも知らないが、モテットというのかも知れない、とにかくポリフォニックな響きが、僕の頭の中に次から次へと朝の風を吹き込んでいる。僕は、ああ堕ちてくる、堕ちてくると思ってしまう。それは教会や神という言葉からくる「高み」のイメージにもよっているか知れないが、もう少し違うものがそこにあるような気がする。そういった感覚が、音楽の構造そのものの中にあるように思うからである。堕ちてくるということは、単にそのようなニュアンスがあるとか、至上の高みの音を聞く思いがするとかいって生半可のおしゃべりをする時のようにあいまいなものではなく、確実に、否応なく堕ちてくるのである。その確実さが、ポリフォニーの構造というものだと思う。一つの声部に注意しているとそれが曲のどんな高揚の時でも、決してそれ自体声をはり上げるようにしているのではないことが判る。一声部はあくまでも一つの単位であり、曲の表情によってそれは左右されることはない。僕等には全く理解しがたい事であるけれども、逆にこの単位が曲の表情を
は、単位ということの最も本源的な姿があるようである。それはそれ自体の内に、内在律をもって息づいている。ブロックをつみ上げればへいが出来るというようね単位の概念しかない僕等の知らないものであり、そのことの普遍性を考える時、諸科学が究極に至りついた夫々の単位に内在する律が、僕等の認識の過程から、どんなに屈折した向こうにあるのかと暗澹ある気分にならざるを得ない。
曲のどんなドラマチックもリリックも、皆一つ一つの声部の関係のとり方によって生じるように進行していく。そしてこの時個々の単位が“墜ちてくる”のは、このことのほかのことではない。Panticcpatianということは、人間の、自然に対するこの様な態度によるものである。自然へのpanticipation(あるいは、自然とのというべきかも知れないが)として、墜ちてくる音が内在律をもっていることは、当然のことなのだ。リズムを失う筈のない、意志的な自然がそこにある。それを芸術という名で呼ぶことは、人間の確かなしかし多分に恣意的な知恵にすぎない。
芸術に於ける「構成」といい「構成要素」ということに関する、(それぞれ“contruction”“constructual ractar”)人間と自然との関係性を抜きにした議論は、全てたんなるおしゃべりにすぎない。僕等は本当には、panticipationということを知ったことはないのである。僕等が厳密な意味で単位を知らないこととそれは等価である。このことをつきつめて考えて見ずに、アンガージュマンも何も分るはずはないのである。僕等は、僕等自身を一個の単位として見たことがないのだから。
僕等は絶え間なく自然にどうかしている。僕等は、人間性が、意志的に構成されたものの内にあるというような事態に対して本質的に無理解である。僕等にとって人間的とは、より生態的なものの内に、自然が顕現してくることであるから、それは受け容れられるはづもない。日本の音楽が。拍というものも音階というものも、西欧的な意味で持ち得ないのはこのことによっている。当然のこと、そこにあるものは、呼吸であり、「いき」であり、声の「はり」なのである。どんな日本音楽の中にも墜落する音はない。人間から自然へ、自然から人間へと、絶えずなだらかに行こうする術を僕等はこころえているからである。
モテットは僕を美としかいい様のないものの前に立ち止らせて終った。しかし、僕の心の奥にはあのなだらかな坂道がある。そして、そのゆるやかな傾斜が又、線体として意志的に浮上してしまっているような、奇妙な心の位相ができ上がってしまっているのである。結局、やすらかに回帰できる場所は、厳密な構成の向う側にも、なだらかな坂道のいきつく所にもないと思ってしまう。
冬の朝にそんなことを考えた。 終 1973・3
『編集後記』 所、渋谷駅に近い美竹教会の一室にて
「このパンおいしいね、どこで買ったの!」
「目黒の碑文谷村よ。」
「ところで編集委員会っていつも食べることで始まって、ダベルことで終っているなー!」
「仕事している時間と食べてしゃべっている時間とどっちが長いかしら。」
「そりゃあ、無論あっちよ!」(注1 読者はどっちだと思いますか?)
「この辺でその話はやめようよ。」
「ところであなたどうして原稿を書かなかったんだい。」
「ウフフ」
「その笑いは何だい。ごまかそうとしたってだめだよ。」
「亀井さんこそどうしたのよ、まだ出てないじゃない。」
「僕、最近謙虚になろうと思っているんだ。何分にも創刊号の時ダラダラと長く書いて編集委員に非常に迷惑をかけたから。」
「そんなこと関係ないだろ。」
「実を言うとここだけの話しだけれど『愛することとは何か』なんて紙面上で概念的に頭の中で考え書いている状況じゃないんだ。」
「じゃ、『愛すること』その2現場編、とでもやったらどう。」
「ウフフ」「アハハ」「ウシシ」(注2 しばらく気持の悪い笑いが続く。どういう訳か、モテない、モテないカメイ氏にももの好きな人が現れて、もっか湯気がたっています。)
「話し変えようよ。調子が悪いよ。」
「ところで真面目な話し期限に間に合うかどうか心配だ。」
(注3、外で都議会議員の音がしきりに聞こえる)
「レッスンに行った時先生何か言っていた。」
「まだ『あなたは音楽になっていない。ただ音を出しているだけだ。その音すら満足に出ていないよ』って言われたよ。」
「ガックリきたでしょう?」
「いや、別にどってことないよ。いつも言われているからー。」
「あ、それから『笛吹きたち』のことtで何か言っていたよ」
「聞きたかったのはそっちの方だよ。」
「僕もこの前聞かれたよ。」
「私なんか、行くたびに聞かれるのよ。」
「よほど先生心配しているんだよ。」
「まー、少なくとも僕達よりは心配しているね。」
「とにかく余り進んでないね。先生の気持よくわかるわ。」
(注4、何と自し認識の甘いことか。)
「あー、こう進んでいないと練習不足のいい訳にもならないや。」
「あんた、少し真面目になりなさいよ」(注5、しばし沈黙がおとずれる)
「うん真面目になると何も出てこないよ。」
「でも編集委員になって、とても楽しかったわね。」
「ところでもう10時過ぎよ。」
「随分ひどう編集後記になると思うけれどしょうがないね。」
「さあ、今日ぐらい後かたづけでもして帰るか。」
第2号終わり |