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文集「笛吹きたち」第1号 原稿再録



笛吹きたち 第1号が創刊されたのが1974年4月です。すでに40年以上前のことです。当時のお弟子さんで現在でも続けている方もあれば、音信不通の方も、亡くなった方もいらっしゃいます。歴史が刻まれたお弟子さんたちの文章です。ここに再録を致します。どうぞお読み下さい。

笛吹きたち 第1号

石原利矩
発表会も近づいて、皆様もそろそろ落着きがなくなって来た頃だと思います。
ここ、外苑に青山フルートインスティテュートを始めてから、かれこれ2年半が過ぎました。
その間、試行錯誤をくり返しながら今までやって来れましたが、こんなへっぽこ先生で申し訳なく自己嫌悪に陥ることもしばしば、今でも皆様から、「先生」などと言われると面はゆい感じで、でもそうでも言われなければ皆様も他の言葉をさがさなければならなくて、呼びかけて下さりにくいと思い、心苦しくも受けとめている次第です。
 かつてあるお弟子さんから、「お弟子さん同志のつながりがなくて淋しい」と言われました。
「友人は、その人の大いなる財産である」という言葉を信じていますので、お弟子さん同志で友人になれる人が見つけられたらいいな、そんな事が一つのきっかけに、この雑誌(笛吹き達)も生まれた訳です。
原稿を集めるのに、かなりしつこく催促してごめんなさい。一年に2回出せればなあと、考えています。
 今回、この「笛吹き達」の編集および制作して下さいました松沢久子さん、田中洋子さんにこの紙面を借りて御礼を申し上げます。次回の原稿も、書けましたらどしどし提出して下さい。皆様で作り上げる雑誌をたて前にしておりますので、持ち廻り仕事をお願いします。
 雑誌名は公募致しましたが、皆様えんりょ深い方達ばかりで、だれも意見を出してくれませんでしたので、私がつけさせていただだきました。
 本箱の片すみに、一冊ずつならんで行くだろう「笛吹き達」を、どうぞ皆様の手で大事に育てていって下さい。


「私とフルートの出会い」 竹部直子
学生時代から音感の鈍い私、社会人になり音楽に耳を傾けるそんな繊細な私になりたかった。そして時にはよく解らない演奏会に興味を示しのこのこ出掛けて行っては途中で居眠りをしている私でした。そんな事を数回している中に私も何か手掛けて見ようと思い立ったのがフルートです。と云ってもあの美しい音色に感動したわけではありません。かさばらず私にでもすぐ手に届くものと考えた時ふと頭に浮かんだのがフルートです。フルートの何ものかも知らずまず会社のブラスバンドに入部して教えてもらおうと調子よく考えました。フルートを手に入れてからブラスバンドの練習に出て行きました。何度顔を出してもさっぱり教えてくれる様子がなくみんなの演奏を聞いているだけです。そんなことをしている中に一年経ってしまいました。一年経ってもまるで出来ない私は情けなさとくやしさで一杯でした。そうかと云って今途中で挫折するのはもっとくやしい、石にかじりついても何とか音にしてみたいと強く心に決めました。それから先生をさがしました。電話帳で片っぱしから電話してきいてみました。その時見も知らずのヤマハの小島さんが先生をご紹介して下さったのです。先生にめぐりあってから二年になりますが練習不足で未だに恥ずかしい私です。私には楽しみでふいているというより苦しみでふいていると云った方が正しい表現でしょう。でも二年前の苦しみとは又違った意味のくるしみです。
テレビのドラマの中の音楽から、フルートの音色だけがとりわけ強く聞こえてくる。前の私だったら無意識に右の耳から左の耳へと抜けてしまった音色が今では体内を一めぐりしてからゆっくり流れて行く様な感じがします。
毎日の忙しさからぬけ出してたまのレッスンに通い、そして帰途にはいつも何とも云えない快よい感慨にひたります。それは忙しいそして単純な軌道に乗った生活から離れて、一瞬ではあるが音と一つになれるからです。そんな時私はとてもうれしいのです。いつの間にか音楽に興味を覚えて来た私を見出しています。
フルートは、あまり上手になれそうもありませんが、私とフルートの結びつきは、強いきづなで結ばれているように思います。


「○○○○?」 根岸良夫
 床の上で猿がシンバルを叩いている。時計がリズムをとっている。籠の中で鳥が歌っている。風がフルートを吹き
本が弓を弾いている。椅子がダンスを踊り、ストーブがトランペットを吹く。光が拍手する。ラジオがハモニカを、ステレオがベースを、ノコギリがコンサートマスター。そこには、学生の嘆き声もなければ、教師の訳の分からない講義もない。だれもが好きなことをやっていた。他人にかまうことなく勝手にやっていた。しかし、それらが一つになった時、それは一つの完成された音になっていた。だれ一人文句は言わない。どこまでも、いつまでも自由で、広い。
 私は鉛筆を持ってメモした。そこにあるすべてを、そのすべての状態を。たちまち彼等によってかたって、リンチされた。ひどい目に合わされた。鉛筆をすて、手でコンダクターの真似をしてみた。しかし、二度とだれも歌おうとしない。踊ろうとしない。窓をいっぱいに開いた。が、それ以上開かない。力いっぱい押してもあざ笑っている。
私はカベをぶち抜いてやった。生あたたかい風が流れて行った。

 くよくよするなって、しょげることはない。
 もう一度やってみるんだ!さぁやるんだ!!
 なんとすばらしい世界なんだ!


「一番ほしいもの」 藤澤冨美子
 週五日制があちこちできかれる此頃だが、私の職場は四八制、土曜日も八時間勤務、それに早番、遅番があり、通勤時間が一時間半かかるので、早番の時は朝六時に家を出なければならない。夏はまだいいとしても、冬は寒くて暗くて非常につらい。組合など四四制を要求しても、働く婦人は年々増え、それにつれて保育を必要とする子供も又年々数を増し、いくら施設をふやしてもその要求には追いつけない昨今、四四制さえなかなか実現せず、まして五日制などは何時の日か。
 かくして家と職場を往復するだけで一日の大半が終り、その日の新聞に目を通すのがやっとという毎日。
日曜日は一週間分の洗濯や掃除、その他の雑用に追われ、やりたいことをする間もなく、またたく間に一日が暮れる。一番うれしいのは日曜以外の休みである。この時は日頃やりたいと思う事が少しでも出来るからである。
 とにかく、今一番ほしいものは時間である。何よりも時間がほしい。


「無題」 荒井忠一
 私も戦後生まれです。と書き出しても誰も平然と読み通してしまふでしょうが、日本、建国以来戦後は何回もありました。私のは日露戦争です。
 その頃新築のビードロ(硝子障子)校舎で、“囲炉裏はとろとろ”と唱歌をうたい、戦争の話に耳を傾けたものです。
時に松葉杖をついて物請ひに来る傷痍軍人を見かけることがあっても現代の様に白衣も着てゐないし、特別惨めなさまを見えがくしにする事もなく、進んで同情する人がよくあった様です。彼の立去ったあと青い空には白いちぎれ雲が舞い、雲雀が鳴いて至極平和でした。勝利がもたらした平穏だったでしょう。
 世界の人心が、道徳がそして又文化が向上しつつある現在以降は決して戦争など起るまいと思った子供心の当時を時折思ひ出してゐます。
 今回の戦後は、敗戦のショックもあって人々は心のより処を失ひ、その混乱の中に生まれた若い人達は、過去に永い歴史の中で育って来た日本の人の道を簡単に踏みつぶして進みました。昔からあった「今の若い者は」と云う言葉が、より多くの実感を持つようになり過ぎ、遂には言葉の意味がなくなりました。
 もう言っても仕様がないとぼんやり見守っている外ありません。昔の先生と言われた人達がストをやる様になり、事毎に国にたてついて教育をゆがめ、国会議事堂は政治以外の問題で与野党の闘争の場となった感が深く、昔の礼服で威儀を正した時代はいずこやら。
 街では良識的な人と人との美しい交わりは片隅に追いやられて、目にもふれません。そんなものは現代人の心の内で、古代の人間感情の名残の様に、問題にもならない様です。
 横井さんが発見されたら、戦前の教育の犠牲者だと言うが、私は彼を生きて帰らせたのは戦前教育の刀だと言ひたい。ある信念があってこそで、いくら良い体質に恵まれていても、独りで生き続ける事は至難です。
 赤軍派若しくは過激グループこそ戦後教育の真の犠牲者です。何事も正道の逆をゆくのが進歩だと曲解して、他人説明など一切受付けないのが彼等の信条です。
政治家もくだらない闘争意識にかり立てられて、野党も与党も頼りになりません。
 もう私はノイローゼになりそうです。他人の言ふ事、人のやってゐる事の一つひとつが気に入らない。
嫌な世になりました。と言っても、威張っても居られません。社会の片すみに追いやられて誰にも顧みられない自分を日毎に強く覚えるだけです。いっそ世を捨てて寺にでも這入ろうかと思ふ事もあります。
 こんな思ひつめた時に、私は仕合せを発見しました。フルートがいつも変わらぬ愛情を私に注いでくれてゐます。
 そっと手に取ってなぜてみる。併し気持ちが荒れてゐる時には中々唇までゆかないが思ひ直して吹いてみる。
だが悪い感情がこみ揚げて来てハーッと溜息をする。もう一度繰り返してみる。と思ふ様に鳴らないので又吹く、
そして又、いつか忘れて長時間練習してしまふ。
そして終わった時には、先に苦しんだ心のわだかまりはいずこかへ消え失せて、何事もなかったかの様に明るい胸の内に自分で驚嘆し、心から感謝して仕合せを謳歌してゐます。
何と嬉しい事でしょう。
此の病的な日々の苦痛から逃避し得ない折に恰も観音様の慈顔の様に絶え間なくやさしく
私を見守ってくれるフルートに、心から礼を差上げる手段は、暇ある毎に手に、そして唇に触れる事だと固く信じ、そうしてゐます。


「無題」 島田幸子
どちらがお好きですか?
真白いきれいな表紙の本と、手アカでうすよごれた本とでは・・・・・
ワタシは、どちらかといえば、よごれたヨレヨレの本のほうにミリョクを感じます。
ヨレヨレの本なら、いつでも間近におけますもの。
真白い本などというものは、ガラス張りの本箱に並べておくか、持ち運ぶためには、ブックカバーを何重にも重ねなければならないでしょう。
本というものは、ただの紙のかたまりですが、それは持つ人によって、体の一部になってしまうことだってあるのではないでしょうか?
長年愛読した本を手ばなしたとき、心にポッカリ穴があいたように、不安定になるのは、そのためではないでしょうか?
よごれて、ヨレヨレのほうが、あったかくて、人間的だと思いません?


「奇行記」 野本実
 クラブで「おと」などという名の雑誌を出すから、原稿を書けと言われたり、クラスで文集をつくりたいから原稿をかけなどと言われたりで閉口していたところに、石原先生からまたまた原稿の話。学年末をひかえて、いくつかのレポートを書かねばならないのにまして、またまた原稿なんぞ書くことは、奇跡に近いことであります。
しかしながらレッスンのたびに先生に、原稿のことを言われて、やむなく「あれでも書くか」という気になったものの、いっこう書きはじめる気にならず、いつのまにか「何かほかにもうすこしましな材料がありそうだ」などという気がしてきて、ほっぽりだしてしまう。
 まあこんなずぼらな僕も、やっと書きはじめた次第。
「ずぼら」と言えば、自分が、これほど「ずぼら」であると改めて感じたのは、去年の秋のことである。まあ例えば、フルートの練習一つにしても学生という暇には比較的恵まれた分際でありながら、レッスンの一日か二日前になってあわててエチュードを練習して、先生の所に行って、惨たんたる出来と言う事のよくある僕としては、自分の「ずぼら」は、かなり自覚していたつもりである。しかし去年の秋の旅行の時程、自分の「ずぼら」ぶりを強く意識した事は、なかった。
前期の試験の為の勉強をしている時にふと旅行にでも行こうかと思いたった。別にここへ是非行きたいという所が あるわけではない。高校時代、奈良女子大を首席で出たとか言う美人の古典の教師が、『大糸線は、とても味わい深い』 などと言っていたのを思い出して大糸線には、乗ってみようと決めた。前期の試験は終わっても、7月に病気で欠席した分の生物の実験をやらねばならなかった。実験している最中、まだ学割をもらっていないのに気がついた。
普段少しお金があれば、楽譜を買うか、演奏会に出かけてしまう僕としては、貯金などほとんどない。この旅行を 束縛する一番大きなものは、お金である。そこで、学割を取りそこねたのは、かなり打撃である。
まぁやむを得ず25日に貰ったばかりの一か月分のお小遣いと、先月分の残り少しで旅行しなければならない。
実験がやっと夕方の5時頃おわって、急いで家に帰る。もちろんまだ何の準備もしていない。リュックに、てあたり 次第に物をつめこんで、さあ出発。大糸線には乗るつもりなので、新宿に出て、松本まで中央線で行くことにする。
切符はなるべく遠くまで買った方がわずかではあるが得とか。なにぶん……なもんですから。
新宿から切符を買うつもりなので、新宿へ行くまでに、だいたいのコースを決めねば。
大糸線で糸魚川まで行って、新潟方面へ北上するか、金沢方面へ下るかを決めねばならない。翌日の9月29日には、 たしか新潟で例の有村水銀中毒の判決が行われるので、一つ傍聴しに行くのもおもしろいかもしれない。しかし傍聴券が、まず手に入らないだろうし、もし原告側が負けたりして、企業側が、「それみた事か」といった高慢な顔を見るのは不愉快だし…。一つ金沢へでも行って、のんびりふらついて来るかと考える。そこでリュックの中につめこんだ 5,6冊のガイドブック(どこへ行くかわからないので、色々の方面のガイドブックをつめこんでおいた)のうちから金沢方面のものをとり出して、それを見て、まあ金沢もよかろうという事になって金沢方面へ行く事を決定する。
そう決まったとしても、切符を金沢まで買えば、良いというわけではない。国鉄の運賃は、201~220Kmまで890円とか221~240Kmまで990円となっているから、新宿からのKm数を必死になって計算する。なにぶん……なもんですから。混んだ地下鉄のなかで、時刻表のKM数の数字を色々計算するのは、なかなかやっかいなものである。
新宿から金沢までは595.2Kmまでというところに該当する。どうせなら、ぎりぎり500Kmといきたいが、他の都市までにすると、もっとうまくいかないので、やむを得ない。切符も金沢まで。28日の夜おそく新宿を出発した僕は、信濃大町で途中下車したり、糸魚川で途中下車したり、なにしろ鈍行専門なので乗り換えの連絡がすこぶる悪い。
乗り換え駅に近づくとガイドブックをとり出して、おもしろそうな場所をさがす。しかしガイドブックには、いわゆる観光名所的なところばかり並んでいておもしろくない。元来観光名所などという所は、誰が決めたか知らないが、
つまらないところが実に多い。他人の価値観にへつらうよりは、気の向くまま町の中でもぶらつく方がずっと良い。
糸魚川から北陸本線で金沢へ向かったが、急に能登半島へ行きたくなって、金沢のすこし手前の津幡で、乗り換え。
金沢まで買ったこの切符は、有効期限が三日であるから、能登を一日ぐらいまわっても大丈夫。七尾線とか言う鉄道に乗り込む。さてそろそろ今夜の宿をさがさねばならない。ユースホステルガイドブックなる本をリュックから取り出し、適当な場所をさがす。だいたいここが良かろうと「穴水青年の家」とかいうY・Hに決める。向かいの座席に
すわっていた老人からどこへ行くのかとたずねられた。一人旅で、ほとんどまる一日なにも言葉を発していない僕は頭には下車(する予定の)駅名の文字は、思い出せても、発音できない。老人が、「輪島か?猿島か?」と尋ねるがただ首をふるだけ。やっとのことで「アナミズ」と発音できた。
この事を思うと、かの横井庄一氏とやらは、全く驚異的な人物である。穴水で一応下車して、駅の公衆電話でY・Hへ電話。もちろん予約などしていないから、もし断られたら、どこか他のY・Hをあたるか、適当な夜行列車に乗り、 朝になったら適当な所でおりれば良い。
さいわい宿泊OKの返事。この季節はあまり利用されないらしく客は、定員の半分程度。Y・Hで寝る前に、明日の だいたいの方向を決めねば。輪島の朝市を見たいが、穴水から、また輪島まで行くと、列車の関係で能登でもう一泊しなければならない。まあ輪島の朝市はあきらめて、翌日は、金沢方面へもどることにする。翌30日は、金沢へ行き、金沢大学をぶらつく。金沢大の構内をリュックをしょってトコトコ歩いていると、学生がちらりと見る。 恥ずかしいけれど、まあ気にしない。城跡の中にある静かな大学である。どうもどこの地方大学のサークル部室も 同じようだ。この金沢大のサークル部室も我千葉大のものと同様木造のほこりだらけの旧校舎である。
なにかむしょうに金沢大のオーケストラの音がききたくなった。
大学の学生オケといっても本当に多種多様であって、なかなかおもしろいものである。例えば、東大のオケは、 ヨーロッパにも演奏旅行をしたことがあるとか。今年の一月に行われた定期演奏会に、僕も行ってみたが、まず
プログラムからしてすごい。頭にモーツァルトの交響曲「リンツ」を置き、次にベルクのヴォツエック、最後が、 マーラーの「巨人」である。しかもモーツァルトといい、マーラーといいなかなかの出来。それ以上にベルクは、 全く舌を巻く程、早稲田のオケも、ブルックナーなどをよくやっていてかなり意欲的な活動をしているようだし、 京大のオケも近衛氏が棒を振っている事もあって、かなり特色がある。特色があるという点では、我千葉大オケも 他にひけをとらない。なにしろ第27回の定期演奏会のブラームスの交響曲2番から始まって、第28回のブラームスの1番、第29回のポップスコンサートをはさんで、第30回のブラームスの4番とたてつづけに、ブラームスの 交響曲をやった。こうなると『ブラームスは、お好き?』などと言っていられない。とにかく、レコードが次から次へと発売され、外国のオケが、めじろ押しの昨今ではあるが、色々な学生オケをきくのは、学生オケの一員として、 また一人の音楽好きの人間としてなかなか楽しい。
ところで金沢大のオケがむしょうにききたくなった僕は、恥も外聞もなく、オケの部室へ。ところが、この金沢大では、まだ試験中で、練習なしとか。やむを得ず金沢大のオケをあきらめ、町をぶらつく。兼六園などには、見向きもせず、九谷焼をとくとながめる。こうしているうちに、乗ろうとおもっていた列車に乗りおくれる。
適当な列車がなく、飛騨高山あたりで、一泊するか、このまま夜行列車で帰宅するしかない。あいにく適当なY・Hがない。とにかく、富山へもどり、富山から高山線に乗る。この高山線も大糸線同様すてがたい味がある。
高山線で、岐阜へ出て、岐阜から名古屋へ。名古屋はパチンコの本場とか。球がくいにぶつかってカタカタ動くのを いちいち目で追うのが、気の短い江戸っ子の気質にあわず、かといって球をたてつづけに打つというのは、大阪の人間には、あわず、中間の名古屋で発達したなどという(信頼性のとぼしい)話を、中学時代、地理の教師から聞いた
ことがある。しかし、どうもパチンコ屋へリュックをしょって入る気には、なれなかった。名古屋から夜行で帰宅した訳であるが、この旅行で、とにかく、後悔されるのは、もうすこしお金があったらもっと自由にぶらつけたのにと 思われることだ。それから金沢で九谷焼の窯元を見物しそこねたこと。能登や信州の地酒が飲めなかった事。
(去年の12月に松本で行われた全国大学オーケストラ連盟理事会とやらで、信州は信濃大町の地酒を飲めた。 非常にあっさりした酒で、さして飲んでいないつもりでも、実際にはかなり飲んでいて、かなり酔っていた。
脱線ついでに、・・・先日、長野の諏訪の「横笛」という酒を飲んだら、これは、すごくこってりした感じ。 まぁフルーティストのみなさん一度おためし下さい。)もう一つ後悔される事は、高岡で途中下車出来なかった事。
高岡は、青銅器工芸のさかんな町とか。金沢あたりでも、色々見られたが、是非一度、高岡の町をぶらついてみたい。
まぁとにかくこの無計画は、無事おわったわけで、それ以来自分の「ずぼら」にある種の自信まで持ってしまった。
それに加えて高校時代は、理科系の学生は、几帳面で神経質な方が理想的だろうと思っていたが、先日数学の教師が 几帳面で神経質な奴は、創造性がなく、つまらぬ論文しか書けない学者にしかなれないなどと言っていた。
それを聞いて、また自分の「ずぼら」に安心してしまった。どうも4月の発表会の練習をこの「ずぼら」でさぼり、 とくに4人でやる合奏の方は、一緒にやる方々に、ずいぶん迷惑をおかけしてしまいそうです。
ボザの『夏山の一日』とか言う曲をやる方々あしからず。


「笛吹き百態」 石原利矩
笛吹きや 蚊のなく様な C(ツェー)の音   読人知らず 

弁解は 始める前の 慣いなり

指よりも 口先の方が 良く動き

×(ペケ)印 やればやる程 数がふえ

この音と 思えど明日は 違う音

ランパルも まちがったぞと 安心し

いやな物 いつまでたっても A(アー)の音

笛吹きの へたは フラウトトラブルソ

理くつ屋は いつもきまって 悪い音


「悲しさについて」 喜多村 立彦
 このところ、モーツァルトに取り付かれてしまいました。あの一見無邪気にみえる何気ない旋律の陰にある、
心を鋭く抉るような哀愁―最も人間的な感情―が胸の奥に突刺さっています。
小林秀雄氏は、モーツァルトの特色を「空の青さや海の匂いの様なかなしさ」と謳っています。小林氏はこの例として、ト短調クインテット(K.516)の冒頭を挙げています。たしかに、モーツァルトの「かなしさ」は、この
クインテットや同調の四十番シンフォニー(K.550)あるいはニ短調ピアノ協奏曲(K.466)などの短調の作品で、
もっとも直?にでています。しかし、ぼくがもっとこの「かなしさ」を感じるのは、むしろ華麗な長調の曲のほうなのです。たとえば、我々笛吹きにはお馴染みのニ長調のフルート四重奏曲(K.285)。この第一楽章、彼お得意の
音形で始まるこの華々しい曲をきく時、しばしば、燦然と輝いていた真昼の日の光がふっと翳った時の様な一瞬の
寂しさを感じることがあります。「物思いに沈んだ悲しみのニュアンスを持たぬ音楽などいったいなんであろうか?『美しい音楽を聞くと悲しくなるばかりだわ…』(ヴェニスの商人)」これは、スタンダールの言葉です。


「私の夢」 小島邦雄
 もうフルートを吹きはじめてから十年余になりますが、ちっとも上達しないので困っています。
私の職業は楽器を売る事ですが、楽器に囲まれて仕事をしている割にフルートの練習が出来ず、他人には少々
うらやましがられる事があるのですが、本当は一度も楽器に手を触れない日の方が多い毎日です。
さて、私の夢というのは、未だ入社したばかりの頃、仕事になじむのに一生懸命で、フルートを練習する事や、音楽会に行く事、又、レコードを買って聞く事など出来なかった時に、何時かそれらの出来る時のくるのを夢見ていました。(本当はレコードを買うお金もなかったのですが)最近になってやっと余裕が出来て、発表会では、ずうずうしくも人前で演奏できる事などを考えますと夢を見ているみたいに感じる事があります。
 職業柄、演奏会に行ったり、演奏家に会ったりする事が多いので、大曲を演奏する事など、とても恐れ多い事だと思ったりしますが、これもアマチュアの特権だろうと自分に言い聞かせて練習しています。これからもできるだけ長い事フルートをいじっていたいと思いますし、五十、六十になってもフルートを吹きつづけていたいと夢見ています。


「音楽高校を受けて」 石井孝治
 私は、芸大付高校と桐朋女子音楽高校をうけた。そしてどちらもおちた。
まず、芸大付高校を受けてみての感想は、なにしろ音楽高校を受けるのは、これがはじめてなので勝手もわからず かなりアガッた。芸大付高校は、三次試験まであって、一回の試験ごとに発表がある。一次試験は実技試験で、 課題曲、単音聴音、音階を吹かされる。試験官は二列にならんでみている。吉田先生の顔も見えた。一次試験は なんとか通過した。二次試験は、旋律、和声聴音、ピアノ、フルートの自由曲の試験があった。この日はまるで自信がなかった。結果は予想通り、よくなかった。おちた理由としては、全部よくなかったが、聴音が特によくなかった。
やっぱり、おちるというものは、気持ちのよいものではない。やっぱりガッカリした。
 桐朋女子音楽高校は、四日間にわたって試験が行われた。これは、試験が全部終わってから速達で送られてくる。
結果は不合格であった。やっぱりガッカリした。一日目は、実技試験であった。今度は、のびのび吹けたと思う。
試験官には、森正、林リリ子先生などの顔が見えた。これはうまくいったと思う。二日目は、学科試験、三日目は、 聴音、ピアノ試験、四日目は、ソルフェージュ、面接であった。面接では「どうして聴音がこんなに悪かったのか。
実技が良かったのに。」と言われた。
 それから、桐朋を受けにきた人は、みんな桐朋の先生にならっている。同じフルート科を受けにきた人などは、 学科まで桐朋の先生に付いているという人だった。ぼくが桐朋の先生についていないというと、よく受けに来る事を フルートの先生がゆるしたなどといってすごくおどろいていた。ぼくがフルートの先生は石原先生で、林リリ子先生にならっていたことを言うと少し安心したような顔をしていた。ぼくはもうびっくりしてしまった。
音楽高校を受けて、いろいろなことがわかったと思う。
 二つの音楽高校を受けてみて感じたことは、聴音をもっと早くからやっておけば良かったと思った。
それから、芸大付高校は、桐朋女子音楽高校よりやさしいような気がした。どうしてかというと、聴音が、桐朋女子音楽高校はすごくむずかしく、芸大付高校のほうは、少しやさしいようなかんじがしたからだ。
音楽高校を受けていろいろ勉強になり、良かったと思った。


「バッハ様々…」 白川幹夫
 学生時代までの僕は、バッハといえば“音楽の父”だと教室で習った記憶はあるが、実際に聴いて知っていた曲は 「トッカータとフーガニ短調」と「管弦楽組曲第三番の中のアリア」程度だった。あるとき、友人の家に行って何気なく聴いた「管弦楽組曲第二番」が大変気に入り、それ以来、このレコードを何度も何度もかけているうち、僕も
フルートをふいてみようという気になったしだいです。何かこの曲には心に安らぎを与えるものがあったのでしょう。
今では、この曲の中のロンド・サラバンド・ブーレ・ポロネーズ・メヌエットやフルートソナタ変ホ長調の中の シチリアーノなどを自分勝手にふいて楽しんでいます。
 数年前から続いているバロックブームに乗って、オールバッハ・プロの音楽会もしばしば開かれているようです。
僕も演奏会にはよく出かけるのですが、一昨年五月、東京文化会館で行われたオーレル・ニコレの演奏会で演奏された、無伴奏フルト・ソナタはすばらしかった。最初の音が出た瞬間、僕の頭の中に痛烈な一打をくわえられたような 感じで、最後まで身がひきしまる思いで聴いていました。(この曲は昨年発売されたグラモフォンのMG2231に入っています。)バッハのフルート曲では他に「トリオ・ソナタニ短調」や「音楽の捧げもの」の中のトリオソナタが好きです。前者は、ランパルとニコレが演奏しているエラートのレコードで、後者は、ニコレ、カール・リヒターなどが 演奏しているアルヒーフのレコードで楽しんでいます。
 あー、はやく もっときれいな音色で フルートを ふけるようになりたい!


「無題」 西広慶二
 ふまれても根づよく忍べ道芝の
 やがて花さく春は来ぬべし

 沖の朝風吹きあれて
 白波いたくほゆるとき
 夕月波にしずむとき
 黒やみよもをおそうとき
 空のかなたにわが舟を
 導く星のひかりあり

 ながき我が世の夢さめて
 むくろの土にかえるとき
 心の悩み終わるとき
 罪のほだしの解くるとき
 墓のあなたにわが魂を
 導く神のみ声あり

 嘆きわずらいくるしみの
 海にいのちの舟うけて
 夢にも泣くか?の子よ
 浮世の波のあださわぎ
 雨風いかにあらぶとも
 忍べとこ世の花におう
 
 湊入江の春つげて
 流るる川に言葉あり
 燃ゆるほのおに思想あり
 空ゆく雲に啓示あり
 夜半のあらしにいさめあり
 人の心に希望あり


「意識と無意識と」 近藤康男
 モーツァルトの音楽から人は狂気な何かを感ずるであろうか?
モーツァルトは人にとって身近な存在であり、美しい、こよなく美しい愛すべき世界である。私はモーツァルトを 天才と呼ぼう。日本画にたとえるなら、広重である。
広重に対して、同時代の絵師として北斎がいる。たとえば北斎の晩年の三大名作の一つに「赤富士」があるが、 この画の静的な美の内に、何かせまってくる狂気がある。それは、人の理解し得ない範囲にあって、そこには常人の 越えられない一線があるように思われる。私は北斎を、鬼才と呼ぼう。天才と鬼才とは似て異質なものである。
 音楽の世界ではベートーヴェンである。また、ワグナーもその一人である。ベートーヴェンには、ある瞬間どうしても狂気としてしか思えない世界があって、ふと私は、何故このような作曲がなし得るのか、一体何の力によって、 ベートーヴェンはこのようなものを生み出し得るのかと、感じざるを得ない時がある。そんな時私は、心の内で
こうつぶやくのである。「気違いだ!」
 天才が意識の世界であるなら、鬼才とは無意識の世界である。狂気の世界である。
もし私が、北斎、またベートーヴェンの師であったなら、両者共、破門に処したであろう。しかしながらシンフォニーがベートーヴェンによって終焉したように、富士も、「赤富士」によって、絵画の対象としての意味を、失ったのである。


「叙情的 抽象的 阿呆的世界」 伊藤 望
 手持ち鏡がある。これには、鎌倉彫で椿が彫ってある。
私の母は鎌倉彫を習っており、この鏡も彼女の作品の一つである。
 ところで、この鏡は大変小さい。右の耳のつけねから、左の耳のつけねまで、額から鼻の頭までしか一度に 見ることができない。片目の人ならば、その半分しか見ることができないはずである。
しかしこの世には、両目が見えても矛盾して、盲目の人間はたくさんいる。


「無題」 成瀬 忠
 神田駿河台は学生の街である。この界わいには公立私立の中学から大学さらには予備校、生花学校と各種の学校が集中している。午後四時過ぎともなると、国電と地下鉄のお茶ノ水駅は、昼と夜の学生が入れ替る時間となるため、 かなりの混雑となる。歌にもうたわれた異国情緒ただようニコライ堂の鐘が、夕やみせまるこの通りに響きわたるのもこのころである。何年か前の青春の日々、私も一夜学生としてここを通ったものである。
 国電お茶の水駅前から駿河台下、神保町へ下る通りには三軒ばかり楽器店があった。授業が早く終わったときなどは、一軒ずつショーウィンドーに飾られたフルートをのぞいて歩くのが無上の楽しみだった。
 フルートを手にしたいと思ったのは、それよりも四、五年も前だったろうか。
高校を出ると直ぐ一地方公務員として薄給を頂く身となったとき、これであの清涼とした調べをかなでるフルートを 買うことができると思った。(当時愚かにも私は誰が吹いてもあのような音が出るものと思っていた)
 しかしわずかな給料から学費と昼、晩の食事代を差引くと、そう簡単には手に入れることができなかった。
酒たばこはもちろん映画や喫茶店にもほとんど行かなかったし、晩めしは学生食堂で四十五円のカレーライスで すませたりした。
それでもどうにかフルートが買えるだけの預金ができたのは、半年後の秋もだいぶ深まった頃だった。
 楽器店のショーウィンドーには、国産のフルートと並んで、アメリカ、フランス、ドイツ等の製品も飾られていた。
私が初めて手に入れることができたものは、ムラマツの中古品で、他の楽器のようにまばゆいばかりに輝くというわけにはいかなかった。
 子供のようにはしゃぎたい気持ちをおさえて、それこそ宝物を扱うように家に持って帰った。包みを開けるのも
もどかしく、かなり前から買ってあった吉田雅夫先生の教則本を見ながら、ようやくフルートをつなぎ終わると、 いよいよ歌口を口にあててみる。
 それは今までラジオなどで聞いたあのフルートの音色とは何とかけはなれた音だったことか。同じ種類の楽器から 出る音がこんなにもちがうものかと思われるほどだった。尺八の音ともちがう。あれはあれで魅力のある音色ではないか。中音のCからD、Eと吹いてみるが、どの音もまのぬけたしまらない音でしかない。
 あの「アルルの女」やドップラーの曲にあこがれ、半年の苦心、いや長い間の夢がやっとかなって買った笛なのに、 あげくのはてに、父からは「十円の笛とちっとも変らないじゃないか」とも言われ、何ともいら立たしい気持ちで 一生懸命吹いてみるが思うにまかせない。楽器店で、どこか教えてくれるところはないかと聞いてみたが、当時は
まだそういうところはほとんどなかった。
 そんなわけで、練習は毎日時間をみつけてやりはしたが、自己流の悲しさでその進歩は遅々たるものであった。 タンギングなどにも無神経で、スケールやアルペジオの練習もいい加減なものだった。 ただ自分の気に入った曲の楽譜を買ってきては、その曲のやさしい部分だけを練習して、一曲終りまでまともに吹けるものは皆無であった。
 しかしフルートを吹いているときは、何か自分をとりもどしたような充実感でいっぱいになり幸福感にひたることができたものだった。
 一年何か月か前、ふとしたことから家の近くのビルで石原先生がフルートを教えていらっしゃるのを知り、さっそくレッスンをお願いすることになった。案の定、自己流の欠点を厳しく指摘され、アルテの始めから勉強しはじめた。 でも初めてフルートを手にしたころとくらべ、その情熱は当時ほど一途なものではなくなっている様な気がする。
熱がさめたというのではなく、ひたむきなものが自分からだんだん失われていくような気がするのである。 そしてそのことに気がつきふとさびしく思ったり、いやこんなことではいけないと自分に言い聞かせたりする。
一日の仕事が終わってから満員電車にゆられて学校へ行き、さらに帰宅してから笛の練習をしたあの頃のエネルギーが無性に懐かしく思われる。
 また今日もこれからレッスンがある。気をとりなおして頑張ろう。


「無題」  田中洋子
 こたつの上にたいていみかんがおいてあります。
こたつに向かって、一家でみかんをむくのはいいものです。
うちでは、みんなみかんが好きで庭の一番日のあたるところに高さ20㎝ ほどのみかんの木が二本植っています。
(注・盆栽ではありません。)去年五本のみかんの木を植えました。春には花が咲き、秋にはもう口に入るはずだったのですが、植木屋さんから花が咲いて実をつけても、木を弱らせないため実をつんでしまうようにきつく言い渡され、 毎日かかさず水をやって大事に育てていましたが、どうしたわけか、一本も花をつけずそれどころか、そのうちの三本が枯れてしまったのです。後は残る二本にのぞみをかけて今年の春こそ、花が咲き秋にはおいしいみかんが食べられるようみんな楽しみにしているところです。
 楽しみにしているのは、うちばかりではなく、隣のとこやさんのおじさんなどはお客さんの顔をそるナイフの手をとめて、横目でみかんの木をちらっ、ちらっとときどきうかがっています。
 父はあきもせず今年も市が開かれるので今度は、はっさくの木を買おうとはりきっています。
ところでみかんをへたの方からむくか、凹んだ方からむくか別として、お友達から聞いた話によりますと、中から 一つぶとり出してストーブの上で焼いて食べるとまた格別の美味とか。ためしてみるといいと思います。 ことによるとこの時舌の先をやけどするかもしれませんからやめた方が無難かとも思います。


「堕ちてくる声の美について」  亀沢広嗣
 夏目漱石の夢十夜の中に、女に誘われて崖の上に来た私が、崖から落ちることを強いられる話があった様に記憶する。そこで落ちることはl女に対する愛の証しであったと思うが確かではない。ただ明らかなことは、墜落が、愛の不可能性の象徴に他ならぬということである。 漱石の夢は置く。?崖のような声というものがあること言いたい。
 モーツァルトのハ長調のミサ曲を聴こう。これは、妻がその、Sopranoのパートを歌えるように作曲された。
彼の新婚時代の作であるという。明るいというなら、それはあくまで明るい。しかし、モーツァルトの拒まれた愛は一女性によって救い切れる筈もなかったので、Sopranoは遂に飛翔の極みを目指さない。一声毎に堕ちて行く声は、 私達に止まる者の悲しみを刻印する。
 「ビリーズ・ブルース」を歌うビリー・ホリディに私達は同じ声を聞くだろう。そのあからさまな美の前で私達は立ち尽くすけれども、このような、素朴な驚きの美的類型を人は、それほど素直に認めたがらない。おかしな話である。   end


「無題」 飯塚ひろみ
 皆様、今日は。無事に高等部へ進学できることが二学期末にわかっていたので、三学期は、『どうにでもなれ!』と やけぎみだったのですが、いざ試験一週間前になってみて、長年(とはいっても三年間)の習慣のせいか、いても立ってもいられなくなり、あわてて、勉強し始めた次第です。従って、お粗末な文ですが勘弁して下さい。
ではさようなら


「僕と音楽の出合い」  坂上洋太
 僕が「音楽らしきもの」に興味を持ち始めたのは、小学四年の頃であったと記憶している。
 「音楽」と言っても、当時は終戦直後であったため、今の様に物資の豊富な時代ではなく、楽器を演奏するなどと言うことは到底考えもつかなかった。たまたま家にあった蓄音機でSPレコードの歌謡曲を聞き始めたのが「音楽らしいもの」との出合いであった。
 その後、中学生になってから学校の講堂で、ある吹奏楽団による音楽発表会が催され、その時聞いた今日がフルートのポピュラーな曲、ビゼーの「アルルの女」等であった。その時のフルートの音色にはオーバーな言い方をすれば、この世の中にこれ程美しい音色を出すものがあるのかと子供の頃心の中に、強烈に印象づけられた。
 また、学校の音楽鑑賞時間や昼休みの時間に聞いた、ベートーヴェン、シューベルトやモーツァルトの交響曲が、クラシック音楽との出合いでもある。
 この様なことで、子供の頃からの夢でもあった音楽演奏が出来ないものかといろいろ楽器を手掛けてみたが、結局中学時代に聞いたフルートの音色が余りにも印象深かったのでフルートを習い始めたきっかけである。
 フルートを習い始めて早や三年を経過したが、「石の上にも三年」とか「下手の物好き」と言う諺もあるが、なかなか上達しないで苦しんでいる現在である。
 これにこりず今後も音楽を聞き、下手は下手なりにフルートを続けて行くつもりでいる。


「マーラー」  森 純子
 最近、「マーラー」という本を読んだ。妻のアルマ・マーラーの書いた伝記である。あの偉大な作曲家マーラーとの結婚から、マーラーの他界までの十年間の生活の記録であるが、マーラーの内面を内側からのぞくことができ興味深かった。
 マーラーの音楽の才は、幼い時から認められた。しかし、両親の死後、大勢の弟妹達の面倒をみなければならなかった彼は、以後、終りのない労働と心痛に苦しめられる。アルマと結婚後、彼は「君はいいよ。金持ちの家に生まれて、日の当たる道をあゆむ人だ。つらい過去もなく、家族の?もない。しかし、ぼくは靴の裏に泥がつまって重くてあるけないような人間なんだ。」と言っている。
 マーラーはアルマに出合うまで、妹のユスティーネと暮らしていたが、ある意味では、二人は結婚していたような関係であった。そのユスティーネが恋をすると、マーラーは、彼女への献身はやめ、彼女への愛は、以後決してふたたび戻ることがなかった。マーラーという人は、盲目的に人を信用するが、ひとたび眼がさめると、その不信は徹底
していたという。
 マーラーとアルマ・シントラーとの出合いは、1901年、新しい世紀のはじめである。アルマは、さる著名な画家の娘であり、裕福な暮しで何不自由なく育ち、絵に、文学、哲学に、作曲に早くからその才能を見せ、社交界の花であった。このとき、アルマは二十歳、マーラーは彼女からみれば父親のような年齢であった。
 アルマがマーラーと出合った直後、マーラーの友人ブルクハルトは、二人の結婚に反対し、「あなたのような立派な娘、特に立派な系図に生まれた人が、どこかの年寄りの馬の骨と結婚して、それを汚すことはないでしょう。罪ですよ。その上、火と水なら良いけれど、火と火だからいけない。結局あなたが譲歩するようになるでしょう。彼は譲らない。しかし、それにはあなたはもったいない人だ。」という。
 このような周囲の反対にもかかわらず、翌年には二人は結婚する。そして、マーラーはアルマとの結婚生活の数年を、「光輝ある孤立」と名づけている。それは、マーラーが二人の完全に隔絶した生活ぶりを形容するのに好んで用いた言葉であった。
 ブルクハルトの予言した言葉のとおり、強い性格の二人は、どちらかが譲らなければならず、結局アルマが自分を抑えるのである。結婚前、アルマがある手紙に、「今日はこれから一曲仕上げなければならないから(彼女はツェムリンスキーの弟子であった)さようなら」と書いた。マーラーは、自分に手紙を書くことより重要な仕事がこの世の中にあるのはけしからん、と言って憤慨し、以後アルマの作曲を禁じた。このとき、彼女はマーラーの命令を守り、自分の才能を葬り、ひたすら自己を抑え、彼女の言葉によれば、「精神において私よりもさらに秀でた人のために」捧げるのである。
 偉大とか天才とかいわれる人は、往々にしてそうであるが、マーラーもかなりわがままで、子供みたいなところのある身勝手な人間だったようだ。 
マーラーはまったくユーモアのセンスがなく、ちょっとしたことにもすぐ火のつく激しい性格だった。アルマは何度かそういうことを経験し、口を慎むようになったという。又、彼の性格は、アルマにはついていけないと思うこともあったようだ。時々興奮状態が起き、旅行中、楽譜をトランクから三度も出したり入れたりさせられた。又、今日言ったことが、明日には通用しない。前後矛盾していてもかまわない。彼が、いつ、何を考え、どう感じるかは、アルマにはわからなかった。そんなマーラーにつかえている彼女を、まわりの人はその辛抱に驚いたそうだ。
 「彼の頭の中は、自分のことで一杯であり、わずかなことでも邪魔をされると腹をたてた。作曲、高揚、自己否定、そして尽きることのない探究、といったことで彼の人生は始めから終わりまで埋っていた。」そして、アルマは
「私は、彼の生活を生きた。私の生活といえるものはなかった。」といっている。
 この本を読んでいると、実に鮮明な映画を見ているような活き活きとした描写があ、マーラーという偉大な作曲家を身近に感じることができる。と同時に、これを書いたアルマの文学的才能にも驚かされる。
 これを読んだ直後にN響の定期演奏会でマーラーの交響曲第五番を聞いた。この曲はアルマとの結婚直後に作曲されたもので、アルマは、「第五、それは私が初めて、彼の人生と作品に力をかすことができたものであった。その全スコアは、私が清書した。のみならず、彼が私を無条件に信頼して、ブランクにしておいたところまで、私が書いたのだ」といっている。本の中のいろいろなシーンを思いうかべながらこの演奏を聞き楽しかった。
 私は、この本を読んで、あの英雄の偉大な作品の光沢の何割かはアルマの自己犠牲と献身が光らせているのではないかと感じたのである。


「愛することってどんなこと?」-キリスト教的立場からの-考察-  亀井周二
 愛について語る前に現代人の生きている状況について語りたいと思う。
先ず最初に「生命感の喪失」があげられる。現代の私達の生活の中には、自分が生きているという現実の中に、生命というようなものが重味を持って感じられていないのである。最初赤ちゃんの受難の記事が新聞によく出ているが、子供を産むということの中に、新しい生命を授けられる喜びなどといったものは全然ないのである。男の女の性のいとなみが快楽とだけしか結びつかないで、妊娠と出産ということは本質的なつながりを持ちえないのである。妊娠すること、それは「喜び」というよりは「あやまち」なのです。自分のこをお金と引き換えに売ったり、ゴミ箱の中に投げ捨てたりすることができる現代で、人間の生命感が生き生きと感じられるなどということはありえないのである。
 第二は「使命感の喪失」である。使命とは文字通り命を使うということである。自分の存在の中に生き生きとした生命感が感じられてこそ、その生命を何に使うか、という使命が問われてくるのであって、使命感がどこかに消えてしまっているような状況の中で、人間が使命感を持つということなどが起こりうるはずはないのである。
 ところで今日ほど人間が忙しさを売りものにしている時代はないと思われる。
現代人の挨拶の言葉は「お忙しいですか?」という言葉である。それほど忙しさを売りものにしていながら、実は一方では、非常に退屈しているのである。しかしこれは決して矛盾することではないのであって、忙しいといっても、何か使命を感じて動いている忙しさではなくただ体を動かしているに過ぎないのである。生活すること、それはただ
疲労感を生むことでしかないのである。
 第三は「虚無」ということである。生きることに退屈している人間、自分が生きていること、自分が働いていること、自分が学んでいることに、生き生きとした意味が感じられない現代人は絶えず虚無感、孤独感がつきまとってくる。しかし人間とはついに虚無、孤独に耐ええない存在なのではないだろうか、そこに人間が人間である尊いゆえんとともに、また人間ゆえの悲しみがあるのである。私達は自分では意味があると思って、ある事柄に力をそそいでいても、それが無意味だと知らされる時、それを続ける勇気を失ってしまうのです。そして虚無のどん底ではついに人間は自己を脱出したくなり自殺をするのです。
 ところで今まで現代人の生きている状況が「生命感の喪失」、「使命感の喪失」、「虚無」の中にあるということを考えてきましたが、ここで私達は一体、「人間とは何であろうか?」という人間存在のより本質的なことを問いたいと思う。人間とは文字通り人の間ということであって、私達は隣人との関係の中においてのみ人間なのである。人間とは隣人との関係存在なのである。人と人との間で生きることをやめることは同時に人間であることをやめることを意味するのである。人生に意味が生じるということは、その人とその人との関係の中で、自己の存在や行動が考えられることにおいてである。現代人が生き生きとした意味が感じられないということの奥底に何がひそんでいるか、実に、人間でありながら、人間としての存在の仕方を失っているのである。言い換えるなら隣人との関係が成り立っていないのである。互いに顔と顔とをつき合わせて暮らしていても実は、バラバラなのである。家庭においても社会においても、人間が顔を合わせていても、互いに隣人から孤立してひとりぼっちになっているのである。ところでその孤立であるが、確かに私も入れ替えがきかない存在なのである。私の人生は私の他に誰も代わってもらう訳にはいかない。そのことは、私という存在が、置き換えのきく、単なる物(それ)ではなく人格的な、主体的な存在(なんじ)であることを意味する。ところでそのひとりである人間は、またこの世においてひとりぼっちでは生きられないのである。ひとりぼっちということは隣人から切り離されて孤立するということである。孤独と孤立とは本質的に異なるのである。ひとりである人間がひとりぼっちでは生きられないという現実。ひとりである人間が、ひとりぼっちにならないで、隣人と共に生きること、そこから人間の生活が可能となってくるのである。ところで私達にとってまず最初に隣人となるのは男にとっては女、女にとっては男という異性である。旧約聖書の創世記の人間創造の言葉にもあるように人と人との間とは原○的には異性との関係ということなのである。人間が男と女につくられているというその基本的なかたちの中から私達は具体的な隣人との関係を考えて行きたい。ここで私は隣人との真実なる、本来のあるべき関係、それを「交わり」と呼びたいと思う。「交わり」の中で生きることこそ真の人間形成が成り立つと考えるのです。又その「交わり」は「愛」という表現で置き換えてもよいと思う。隣人との本来の関係「交わり」それを私は「愛」ということの中から求めたいのです。「愛」は一人では成り立ちません。必ず愛する対称があるのです。「愛する」こととは一体何か、という中において人間存在を考えたいのです。「愛する」という言葉は、大変魔術的な力を持っています。よく恋人同志の最後の切り札として「君を死ぬほどあいしているよ!」などと言われると、ほろりとして「もうすっかりまかせてもいいわ!」なんて気持になってしまうそうであるが、私はよくも無責任に、図々しくも軽々しく言えるな、と思うのです。現代人は愛することと好きになることとを区別しないで使っているようである。そこには本質的な違いがあるのである。又よくこんな言葉を耳にします。「俺はとうとうあの子をものにしたよ!」これは一体何を意味するのであろうか、要するに、その女性を自己の所有にすることに成功したということである。
I love youというよりは Ihave you なのである。
 所有の本質は人間の欲望であると考えられる。すなわち、物件(それ)を所有することにおいて自己の欲望を満足させるのである。夫が妻を所有し、親が子供を所有し、資本家が労働者を所有する、という社会、そのような所有の関係が人間と人間との間に主張されるとき you は人格としてではなく it(それ)として物件として客体化されるのである。人間を物体化する愛は人間を道具として手段化する愛であるがゆえに、それは品物を愛玩することと同じことである。ところで前に述べたように、私達の愛、それは必ず、その愛する対称の中に、自分の欲望を満足させる何かの価値を見いだして行くものなのです。何も価値が見いだせない時は、愛する対称からはずすのです。
つまり私達の愛それは「愛する価値へのねうち」があるから愛する」という条件つきの愛なのです。ある人は、その対称そのものではなく、顔やスタイルの美しさに価値を見いだしそれを愛します。又ある人は愛する対称の地位や名誉や財産に価値を見いだしそれを愛します。そしてそれらの条件が満たされなくなると、もっと価値のある対称、条件の満たす対称と取り換えるのです。そのような隣人を物件化して所有欲の自由にゆだねようとする愛や隣人の価値に対して関わりをもとうとする愛、こうした愛は隣人を愛するようにみせかけて、実は、自己を愛することにほかならない。そのような愛を私達は、人と人との関係「交わり」を成り立たせるところの「愛」と呼ぶことはできない。
しかしもう一歩深く考えるならば、隣人をあいするといいながら結局は自分しか、愛していない、と言いましたが、今の私には果してその自分をも本当に愛しているかどうか疑問に思うのです。愛する対称のなかに所有するとか、価値を見いだすとかいう関係で自己の欲望をまんぞくさせるような行為が果して本当であって決して愛しているのではない、自己を愛することは、決して動物のように本能のまま動くことではないのです。自己を本当に愛するためには、あるときには自己に対して厳しく審かなければならない時もあるのです。人間は自分をしか愛することができないのに、現代人はそのように「愛」ということを単なる人間の領域で考えていくと私達の前には絶望しかないのです。
しかしながら私はその絶望の中から、ある呼びかけを聞くのです。隣人を愛するといいながら、結局自分をしか愛することができない人間、否その自分すらも愛することのできない人間、そのようなどうしようもない人間、自分が一体何ものであるかわからない人間、全く愛する価値のない私に対して無条件的に「それ it」としてではなく、人格的存在として「なんじよ、you」として呼びかける神の声を聞くのです。その声はほかでもなくあの神の子でありながら、きたない家畜の糞のついた、かいばおけの中に産まれ、「なんだ、お前は、たかが大工の息子ではないか」と人々からののしられ、なぐられ、むち打たれ、つばをかけられ、そして十字架の上でぶざまな死をとげたあのナザレの
イエスの中において聞くのです。ニーグレンの言葉をかりれば、人間の価値発見的な愛ではなく、価値付与(創造)的な愛を見いだすのです。人と人との本来の関係、「交わり」=「愛」は単なる人間の領域内では成り立たないのです。私達がまず、誰ともとり換えることのできない主体的な人格的な「なんじ」として神と交わるという垂直的な交わりを結ぶ、そこで私達ははじめて自己が単なる物件(それ)itではなく人格的な存在、「なんじ」youとしてつくられていることに目ざめ、自己の主体性を自覚し神の愛のうちに生きる。そのような神と私との垂直的な交わりを通してのみ人と人との水平的交わりもはじめて可能となるのである。隣人を本当に愛する可能性を持つことができる者、それは自己の愛が結局は価値発見的な愛、条件的な愛、エゴでしかないということを神の前で認識し、そしてそのような自分をも神が無条件的に愛してくださるということを認識した者のみである。本当に愛されていることを知ったもののみが、真に隣人を愛することができるのである。そこにおいては隣人を愛することと、自分をあいすることとは決して対立する二者択一的なものではないのである。
 「愛はすべてを結ぶ完全な帯である。」 新約聖書 コロサイ書三…四


「無題」  吉村誠喜
 この四月で、僕はフルートを吹きはじめてからちょうど一年になります。吹きはじめた動機は、当時バロック音楽に異常なほどに興味をいだいていたからなのです。とくにテレマンのソナタやバッハの組曲二番などのフルートの曲を好んで聞いていて、自分もあのようにフルートを吹けたらなぁと思っていました。
 一年ぐらい練習すれば、かなりうまく吹けるようになるのではないかなどと思っていたのですが、今吹いてみると、とてもはずかしいくらいです。僕にとってフルートは音楽をやる道具としてやっているので、バイオリンもやりたいと思っています。
 僕の理想は、ドイツのカール=ハインツツェラーの演奏に近づくことで今研究中です。
 フルートの音が出ないときなどは、いやになってしまいますがこれからもがんばってやっていきたいと思います。


「無題」  松沢久子
 地下鉄の駅へ下りようとしたとき街路燈にしては明かるすぎることに気がついた。目をあげると、梅窓院の桜が白々と咲いていた。今しがた終った稽古場の、思い譜面台が私を凝視していたあの時間、冷たく血の気を失った唇を
風が吹いているのだろうかその透明な花びらが洗っていった。これ程までに桜の花を美しいと思ったことはなかった。
私はその青白い微光を背に受けながら、地下鉄に乗るのをやめて青山通りをあるいていった。


《編集後記》      一九七二年四月

  • 先生から小冊子のお話しがあったのは、たしか去年の忘年会のときでした。個人レッスンという文字通り個人的な行動の私たちが、こうしてお互いの生活や気持ちを話し合う場をもてること…これは先生の御提案がなかったら

恐らく永久にできなかったでしょう。

  • 経験のない私たち二人、暗中模索でやっと第一号を作ることができました。“おまたせいたしました”
  • 先生が素敵な名前を付けて下さいました。

「笛吹きたち」と聞いただけで、稽古場から様々な?フルートの音がきこえて来る様です。
表題の題字も先生に書いて頂きました。
先生の厳しい愛のむちにはぐくまれて、フルートの練習と共に この小冊子も育てて行きたいと思います。

  • 話はとんととんで、この文集を作り乍ら一生懸命考えた提案が一つ。それは、マラソン大会を次回に行うことです。

みんな思い思いのかっこうで絵画館まで一周、そして一番ビリの人がこの次編集をすることです。みんな必死になって走るのではないかと思われます。こんな笑い話ばかりしていたので道理で、はかがいくと思いました。



 打ち込み協力:三木恭子 2012年12月


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